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■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ WING BRAIN メールマガジン第54号 ★目次 ★ ■ お知らせとお詫び 編集人 ■ トットちゃん MUSICA ■ 連載 僕は子供の国から来た浦島太郎だったのかな 2 むん ■ 自分が信用出来ないとき ロクスケ ■ やわらかいご飯とかたいご飯どっちがすき? 等 MUSICA ■ 連載 第21回 依存症 精神的と身体的 ロクスケ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ---------------------------------------------------------------------------- ■お知らせとお詫び WingBrain委員会メールマガジンをいつもお読み下さりありがとうございます。 メールマガジン51号と52号に連載記事として当WingBrain委員会メンバーのはるかさんによる「ソーシャルエンジニアリング1,2」と題する記事が掲載されました。 ところが、後に購読者のお一人からあの記事は某サイトに載っているものと殆ど同じだが、著者は同一人物なのか、との問い合わせがありました。事実を確認いたしましたところ、一部を除いて同記事がご指摘のあったサイトの記事と殆ど同じであることが解りました。 さっそく、はるかさんに問い合わせたところ、本人は故意にではなくミスにより当該サイトの記事をコピーしてしまった旨を認め、同時に本人から当該サイトの管理人に対する通知と謝罪のメールを送ったとのことです。 事態の経緯から、上記51,2号のバックナンバーより問題の記事を削除し、はるかさんの記事は当面掲載しないことを決定いたしました。 メールマガジンの記事は投稿者の文責により掲載しております。編集する立場とすれば、寄せられた記事がオリジナルであるか引用であるかは確認するすべはなく、仮に今回のような問題が発生した場合はあくまで当事者間で解決してもらわなくてはなりません。 しかし、公的性格を持つ、不特定多数の方々に読んでいただくメールマガジンですから、知らないこととはいえこのような問題が起きたことはまことに遺憾です。 今後とも可能な限り事前のチェックはいたしますが、たとえ故意ではなくともまた営利目的ではなくとも原作者の了承なしにその作品の一部ないし全部を引用することは著作権という個人の権利を侵す行為になります。記事をお寄せ下さる方々にくれぐれもご注意下さいますよう改めてお願いいたします。 WingBrain委員会メールマガジン編集人 ---------------------------------------------------------------------------- ■トットちゃん 黒柳徹子さんが、新しい本を出した。「小さいときから考えてきたこと」という本だ。(新曜社 ¥1400)トットちゃんの子どものころのおはなしは「窓際のトットちゃん」で詳しく書かれているが、その本から、トットちゃんはLDだとかAD/HDだったのだろうと言われている。 新しい本は、難しい漢字にルビが振られており子どもでも読めるようになっている。トットちゃんが、子どものころにこんなこと考えていて、どんな風に感じていたか、よく書かれている。おとなになったからこそ、こどものころの行動が意味を持って本となり、人へのメッセージとなる。 自分が子どもだったころを思い出すのは、私には容易でない。嫌なことばかり、思い出してしまう。でも、振り返って客観的に見つめられたら、それは自分の財産になるかもしれない。そして、それを本にして出したら、大勢の人の財産になるかもしれない。 また、トットちゃんは、アフガニスタンに行ってその報告もしている。その中で、アフガンの子どもたちの様子を、本当に暖かいまなざしで書かれているのだ。私たちは、ある意味で平和に慣れすぎている。 軽度発達障害を持つ子どもが、トットちゃんのようにいきいきと語れる人に育って欲しいなあと私は思った。そういう世の中を作っていくのは私たちだ。がんばらなくてはならない。 by musica ----------------------------------------------------------------------------- ■連載 僕は子供の国から来た浦島太郎だったのかな 2 そういえば、小学校4年生の時、ふとした事から死について考えたんです。そうしたら、もどうしようもなく怖くなって、それからしばらく、(結構長引いて4、5年ぐらいそんな状態が続きましたネ。)死を考えると体が痺れたような感覚を覚え、まさにその暗闇の中に投げ出されたような恐怖に苛まれ振るえ慄いていました。最近はようやく、人生恐れてばかりでは先に進めないんだ、ということを体得したからか、そういった死の影から抜け出すことができています。でも、きっと、急に死の宣告なんか受けたらパニックになってもっと死期を早めちゃうかもしれませんね。僕は生きる事に執着があるから、自殺なんかは絶対できないでしょう。 そう、だから、今の子供たちがゲームをやってたりすると、簡単に死ね!とかあいつに殺されちゃったとか言ってるでしょ。僕はそういうのを聞くのがとても嫌なんです。 僕は、甥っ子たちと暮らしてるので、よくゲームの話に首を突っ込んでこれがどうなったとか、話しますけど、死んじゃったとか簡単に言うなって教えています。生きること、死ぬ事の意味や重みについて、感じて欲しいから。 それにしても、浦島は浦島でそんなに悪い事ばかりではないかもしれないです。要は気の持ち様ですけど、気が若いと考えれば長所かもしれないし。体は老いても若い気持ちでいられるって事でしょ。 僕は気に病むタイプだから、なかなか前向きに物事を考える事はできないけど、一応、掲げるモットーは、前向きに生きよう!って事だから、辛い事があっても頑張っていくつもりです。 今、年金の審査中で、何とかもらえるように粘っています。ほんとは不支給の通知も着たけど、でも、僕は挫けずに審査請求を戦います。 僕、思うんです。この病気になる事がなければ(あるいは発見されなければ)、こんなにいろいろと自分で動いて手続きしたり、人とあって自分を主張したり、自分を表現しようとはまったく思わなかったんじゃないかと...。 浦島だって、自閉星人だって、ADHDを始めとする発達障害者だって、そうなったのは仕方のない事。ならば、そういう自分でもできる事、表現手段を探していこうと言うのが今の僕のスタンスなんです。たとえば、デイケアに行って陶芸を始めてみて、やっぱり自分は何かを作ったり表現することが実は大好きだったんだって思い始めています。そして、それは手先の不器用さは仕方なくても表現する事はできるんだという事を知ったって感じです。 ネンレイソウオウも人が作り出したあいまいな基準でしかないわけで、幼い部分があっても、それは僕の個性であって、決して障害にはならないと思います。そして、たとえ後ろ指差して、笑う人がいても、それが自分です。自信を持ったって構わないはずです。だから、そんな自分にも今まで世間に合わせるしかなかった自分が解放されて活躍できる日がいつかきっとくるはずだと信じようと思います。 by むん 大人と子供は何処が違うのか・・・年齢が違うのは実はそれほど大きな要素ではないでしょう。 誰でも生まれてから時間が経つにつれて大人になるはずですが、それは人それぞれ。結局社会にどれだけ積極的に関われるかという事だと思います。30になっても責任をとれない、自分の価値観をもてない子供が居ると思えば、15で十分に自分自身を確立し責任をとれる大人も居ます。 他に子供から大人へ変化してゆく過程で、通常心の柔軟性を失い、みずみずしさを失い、感受性を鈍らせて行くのもやむをえないとおもわれています。しかし、これも人それぞれで、年齢を重ねるに従いみずみずしい感受性を身につけてゆく人も居ます。 年齢を重ねればそれに従い経験を積みスキルを身につけてゆくのも当然だと思われていますが、これもまた全く個人差があり、年ばかり取っていつまでも経験を活かせない人もいれば若いうちから一つの経験から多数を学んで成長する人も居ます。 ただ、それは内面の問題であり、普通は外からは分かりませんから、年齢相応という物差しを基準にするのです。中身はどうであれ、実年齢と外から見える振る舞いが比例していればそれでよし、とされているようで、実際の中身は実はあまり問題にされていないようです。 結局はその年齢であれば当然とれるはずの責任をとれ、その年齢であれば当然確立して居るであろう価値観が認められれば、感受性や柔軟性や好奇心やその他の内面など問題にされません。そのような意味で年齢相応が人の判断基準であるのは当然です。 年齢相応の責任がとれない、価値観が確立されていない理由がADHD、AS、あるいはストレス、躾などどんな理由でも人にとってはどうでも良いことです。年齢相応でなければ認められないのであり、その理由がどうであれその不利益に甘んじなければなりません。 思考がまるでスライドショーのように途切れてとびとびなのは私も、そして殆どのADHDの人も同じでしょう。一つのことにこだわり、自分をその時の状況に合わせられないのはASの特徴でしょう。それでも、人にとってはそんな理由はどうでも良いことで、年齢相応ではないから、一人前として認めない、というじつに簡単なルールでこの社会は動いています。 子供のように柔軟でみずみずしい心を持っているのは決してマイナスではありません。責任を取る、価値観を確立するというのはそれとは全く別のことです。 from ロクスケ ----------------------------------------------------------------------------- ■自分が信用出来ないとき いま、私はこの何週間かまともに寝られないのですが、やっている仕事がそんなに難しくはないはずなのに、とにかくうまく行かないのです。 で、愚痴ではなくなぜ今うまく行かないのかを考えてみたわけです。いつものことなんですが、とにかく異常に間違いが多く、同じ間違いを何度も繰り返すんですね。こういうときはパニックを起こしていて、ミスをすること自体に意識が固定されてしまい、自己暗示にかかっているようです。 参考までに、今やっている仕事の有様をちょっと写真に撮りましたので貼付しますが、とにかくICや細かい電子部品を組み合わせて試作回路を作っています。 手順としては 目的に合わせてどのくらいのコストで出来るかを考えながら設計します。 特殊部品を使わず、一般に入手出来る部品を組み合わせ、いかに簡単で故障しないかを考えながら回路図を書きます。 回路図に合わせてプリント基板を作ります。 部品を取り付けます。 様々な測定器を使って回路の働きを確認します。 修整に従って設計図を書き直し、何度か変更しながら完成図を作り、完全な試作品を作ります。 これだけで、別に難しいことではないけれど、いま頭の働きが特に異常でやるはずのない間違い、配線ミス、計算ミスを繰り返しています。電子部品はたとえば電気のプラスマイナスをつなぎ間違えると一瞬で壊れますので、それは何度も確認しそして電源を入れます。その電源をつなぎ間違えて一瞬で部品がすべてパー。すると、次の朝店が開くのをまって買いに行かなければならず、仕事は中断。そんなときにちょこちょこっと寝るわけです。 とにかく、分かり切ったことを何度もミスをするのは今の頭の状態がよほどおかしくなっていて、頻繁に休憩を取りながら時間をおいてやらなければなりません。試しに脳みその状態をシンクロスコープで測ってみたのが今号の写真(うそです) 前に、何度やってもうまく行かなくてパニックを起こしてみたら測定器がいかれていたことがあり、今回は測定器は大丈夫です。それでもうまく行かず確かめたら測定器につなぐケーブルがいかれていました。ハンダ付けがつながっていなかったり、プリント基板が目に見えない所でショートしていたりで、不思議なほどミスが続きます。 パニックを起こしている一つの証拠でしょうが、頻繁に工具や材料が紛失し、それを探すのに相当な時間をかけざるを得ない事があります。結局、あきらめると目の前にちゃんとあったと言う事も珍しくなく、つまりは無いと思いこんでいることから目の前に見えているものを脳が認識出来ないのでしょう。 今の私の頭の中の状態をイメージで表した画像はatamaですが、とにかく何もかも配線がぐちゃぐちゃで、測定してみても波形もめちゃくちゃでとぎれがちという訳です。(画像上の波形は失敗続きの試作品の波形で、まるで私の思考のようなので載せただけのことです。実際の脳波などではありません) もうひとつ、使っているものに限って紛失するのは、使い終わったとたんにきちんとおかないで意識のないまま何処にでも置いてしまうからです。とにかく、このような状態がひどいと、自分のやること自体が信用出来なくなり、無意識に、何かをやろうとしてもブレーキをかけてしまいます。それこそ、用心しなければならないことでしょう。 ブレーキをかけてしまえば、何も出来なくなります。開きなって、失敗したらまたやればよい、と割り切る必要があるわけです。私の場合は深呼吸をし、濃いお茶を飲み、すこし動き回ってからまた取りかかります。とにかく、うまく行くまでがむしゃらにやり、自分に対する不信の念を取り去る必要があります。 よく考えてみると、時々意識が飛んでいるようです。飛んでいるといっても気絶しているわけではなく、一つのことを考え続けているつもりで、瞬間的にまったく別のことがフラッシュのように思考の流れの中に入り込みそこで思考の方向がまったく変わり、またしばらくして元の流れに戻るようです。 通常の場合思考はビデオの様に連続しているはずが、私の場合、スライドショーのように不連続になっているようです。 まあ、疲労もありパニックもありそれが原因で今の状態になっているようですが、仕上げなければならない締め切りが決まっていますから気分の切り替えもままなりません。 そんな状態ですが、それでもとにかく一歩一歩完成に近づきつつあり、トラブルを一つずつつぶしています。おそらく、今日中に形が付くでしょう。 これがADHDのためかどうかなど考えても仕方がありませんが、自分が今どんな状態になっていて、それはなぜなのか、どうすれば改善出来るかを考えることは必要でしょう。 そのような意味で、気分転換をかねて書いてみました。 by ロクスケ ----------------------------------------------------------------------------- ■やわらかいご飯とかたいご飯どっちがすき? 等 私の父母は、毎度ご飯のことでけんかする。それは、父は基本的にやわらかいご飯が好きなのに対して、母は固いご飯が好きなのだ。だから、父が炊くとやわらかいご飯になって、母は決して食べない。それはもう傍で見ていても笑ってしまうくらい、頑固なのだ。このご飯戦争は、私が子どものころから繰り広げられていた。 ところで、父は定年前に胃がんをやり、胃を2/3切除した。そのときに、固いものはさけて、小食で一日何回にも分けて食べるように指示があった。それにもかかわらず、母はけっしてやわらかいご飯は炊かない。がんとして、かたいご飯を炊き続けているのである。同居している姉もいささか呆れているくらいである。 私は、父がもうじき80になるので、それではかわいそうだと思い、1合炊きの小さな炊飯器をプレゼントした。ただ、最近は一合炊きなんていうものは売れないらしくて、保温もついていない。手のひらにのっかるくらいの小さなお釜である。しかし、あっという間に炊けるそうだ。父は喜んでくれて、御礼のメールを寄こした。 さて、私はやわらかいご飯が好きである。父譲りなのだ。先日、3合のご飯を炊こうとしたときに、ちょうど長男がそれを見ていた。そして、素っ頓狂な声で「おかー、何合炊くつもり?これじゃあ、水が多すぎるよ。」と言う。だから「私はやわらかいご飯が好きなの。だからいつもこのくらいで炊いていますが」と言うと、なんと長男が「俺はかたいご飯が好きなの!」と炊飯器の中のお水を無理やり自分の好みの水加減に直してしまった。 「うっそー!!」と私は思った。今まで、ごはんがやわらかいと文句などでたことがないのだ。我が家では一番の大飯食らいの長男が、かたいご飯がすきだったなんて。 長男には、小学生のときにご飯をといで炊くことを日課としていた。今は無洗米を使っているが、そういえば長男はよくひとりでご飯を炊いている。まったく、裕福な世の中になった。うちも一合炊きを買いたい位である。 by musica ゴミ捨ての憂鬱 私の住んでいるところは、以前は燃えるゴミが週3回で、燃えないゴミが週1回だった。ところが、何年か前にリサイクルの概念から燃えるゴミを2回に減らし、資源ごみの日というのを1日つくって、燃えないゴミは今までどおり1日とした。 ときどき収集日が変わるようだが、今は次のようになっている。日曜日:なし月曜日:なし火曜日:なし水曜日:燃えるゴミ木曜日:資源ゴミ金曜日:燃えないゴミ土曜日:燃えるゴミ 日月火とゴミの収集がないのが辛い。日にちを間違えて、水曜日に燃えるゴミを出し忘れることが多々ある。 また、資源ゴミは、4家で2ヵ月ごとの持ち回りで、箱を出しておかなくてはならない。資源ゴミは、ビン・缶・新聞紙・ダンボールである。缶ビールなどをたくさん消費した週はたいへんである。また、衝動買いでいろいろとモノを買うと、ダンボールの山になる。 金曜日の燃えないゴミは、なぜか週の終わりで疲れているせいか、どうも出し忘れが多い。まあ、腐るものではないので、家のガレージのほおりだしてあるが、時折、猫やカラスに狙われてガレージ中にゴミが撒き散らされていることがある。気がつくと3週間分たまっていたりする。 土曜日は朝一番に収集に来る。8時くらいには来ているのではないかと思う。私は土曜日は休みなので、ゆっくり寝ていたいのに、ゴミのために起きなくてはならない。したがって、よく寝過ごして失敗する。 うちの集積所は、4家だけでやっている。それで4家で相談して、ゴミ箱(蓋つき)に入れて出すことにしている。汚れないためと、猫・カラス対策だ。だから、夜遅くまで起きている長男に最近は夜中に出してもらうように頼むことが多い。いくらゴミ箱に入っているとはいえ、さすがに、早い時間に翌日のゴミは出せないものだ。 しかし、このゴミだしは私にとってかなり苦なものである。こういう地道な仕事が苦手である。前の日に用意しておけばよいのであろうが、なかなか先延ばし癖がでてしまって、気がつくと家中ゴミ袋だらけとなっていることが多い。元夫を追い出した最大のデメリットはゴミだしが私の仕事になったことだ。はー。それ以外は実に幸せな生活なのだが・・・。(ため息) by musica ----------------------------------------------------------------------------- ■連載 第21回 依存症 精神的と身体的 最近、リタリン依存症がかなり大きな問題になっているようだ。ADHDと言えばリタリンと言うくらい普遍的な薬で、確かに一部の人にはかなりの効果がある。ただし、医師がADHDの専門家であるケースが日本では少なく、いまADHDと診断されている人たちの中にはそうではない人がかなり含まれているようであり、その場合でもリタリンが処方されている。 リタリン自体はスイスのチバガイギー社が開発した抗鬱剤であり、ADHDが二次障害として多く悩んでいる鬱にも効果がある。したがって、ADHDではなくともリタリンを処方されてそれが一定の効果を上げているため使用されるのだそうだ。 リタリンは一般薬と違い専門医の処方がなければ入手出来ない。つまり、それだけ危険性が高いという事も決して忘れてはならない。様々な副作用が知られている。一定時間効果があっても、その後で極端な脱力感に襲われ、かえって状況が悪くなることがある。その状態から脱するためにまたリタリンを呑み、悪循環に陥って最終的には依存症になり、最悪の場合自ら命を絶つということも報道されている。 他にも、むろん、頭痛や食欲不振などが言われているし、妊婦、高血圧のひと、緑内障を持っている人などは服用してはならないと言われてもいる。つまり、リタリンとは、かなりのリスクを伴った選択なのだ。だからこそ、厳重に医師に管理されなければならない。 言い換えれば、医師が責任を持って管理し、患者がそれに従って服用するのであれば危険は最小限になるだろうし、そして十分に服用する価値がある。 リタリンはADHDを治す薬ではない。ADHDから生じてくる精神的な混乱を抑える薬なのであり、その効果は人様々だ。全く効かない人もいるし劇的な効果を現す人もいる。一日の服用量はそれも人によるが一回だけで一錠くらいだろうか。それが中毒になると2,30錠も呑むようになると言う。 むろん、そんなに呑まなければならなくなっていれば完全な依存症なのだが、医師に強要し、あるいは複数の医師に処方をしてもらい、最終的にネットなどの闇ルートで買うようになる。そうなればもう完全な覚醒剤中毒と同じであり、しかもそうなってもリタリンが入手可能だというもんだいがある。 そのような状況に陥るのは根本的には本人の責任だ。意志力を持って自分をコントロール出来ればそのような悲惨な依存症にはならないはずだが、そもそもそのような意志力を持っている人間は初めから医師の元へ行く必要はないとさえ言える。精神的に弱くなっているから医師に頼るのであり、そのような人たちに自分でコントロール出来ないのは自分のせいだといっても的はずれだと思える。 薬の処方は医師の責任だ。管理は患者の責任だといっても、それは場合によるだろう。風邪薬や胃薬ならそういっても良いだろうが、こと抗鬱剤などのばあい、同じことをいっても仕方がない。結局、医師が100パーセントの責任をとらなければならないのではないだろうか。患者の状態を医師の目でしっかりと観察をしていれば、その患者が依存症になっているかどうかは解るはずだし、そうなる前に薬を変えるなりもっと協力にカウンセリングをするなりでとにかく薬を減らす努力を医師がしなくてはならないだろう。もし、患者が深刻な依存症になっているのを発見したら、家族に連絡するなり他の方法を尽くして入院させるなどの手だてを医師がとるべきではないだろうか。 薬を出すまで患者が帰らない、薬が無くなる度に待合室で騒ぐので営業に差し支えるからつい薬を出してしまう、という医師がテレビで顔を隠して語っていた。これは患者の責任と言うより、医師の責任であるような気がする。 リタリンに限らないが、アルコール依存やニコチン依存などはむろん体の依存だろう。体が、それらの薬物や物質が切れると正常に働かなくなるから他の何を犠牲にしても求めるようになる。むろん、じぶんでそれを望んでいる人などいないが、じぶんで苦しみながら依存してしまうのだ。 それらの依存症から抜け出すには精神的な依存を断ち切る必要があるが、おそらく独力では不可能だ。有効なカウンセリングや互助、周りのサポートが欠かせない。だが、今の日本ではその面ではお寒い限りで、患者一人に責任が押しつけられている場合が多いようだ。 やはり、精神面の支えをなおざりにしてとにかく薬で一時的におさえようとする医師の責任であるような気がしてならない。 ただし、むろん言うまでもないがその結果を被るのは本人なのであり、やはり本人がいやでも責任をとらされるという事実は変わらない。医師に責任があるから本人にはどうにも出来ないなどと言っているのではない。 by ロクスケ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ ★編集後記★ ■ これを書いている最中、群馬県でまた悲惨な犯罪がありました。26才の普通のおとなしい会社員が同じ団地の隣の部屋に住んでいた7才の女の子を殺したという事件です。 ■大人が子供を殺す事件がどうも増えてきたとは思っていましたが、それにしてもこの事件は理解をはるかに超えています。部屋の前でたまたま出会い、肩に手をかけたら騒がれたのですぐに首を絞めてころし、そのまま遺体を押入に隠して会社に仕事に行ったというのです。会社ではいつもと変わらない仕事ぶりだったとか。ただし、本当に彼が言うことがその通りだとは限りませんが。 ■警察官が来たので帰宅し、その場で犯行を認め被害者に悪いことをしたと泣き崩れたというのですが、どのような思考でいたのか想像が出来ません。日頃からおとなしく仕事も良く出来たと同僚は言っていますし高校時代などはリーダーシップもあり成績もトップクラスだったとか。 ■部屋の中から幼い女の子の写真やビデオ、人形などが多数発見されたことが大きく報道されていますが、それ自体が犯罪というわけでもないし色々な趣味の人がいるのだから特に異常だと言い切ることも出来ないでしょう。だしかに、ちょっと変わっているとは言え、幼い子供は女の子であれ男の子であれ私が見てもかわいいと思いますし、おそらく誰でも思うでしょうが、その場だけの話で、普段は別に自分の子供でもない限り、頭の中にはありません。まして、写真やビデオを集めたりはしないのが普通でしょうけれど、そのような人は結構いるようです。 ■だから、普段から一寸変わっていると思われていても、彼がそのような犯罪を犯す、それもまるで行き当たりばったりの衝動的な、幼い犯罪を犯すなど誰も想像すらしていなかったのだと考えられます。そのような犯罪が特に珍しくないというのも最近の傾向のような気がします。 ■完全無欠な人間は存在しませんが、殆どの人は社会に適応し自分の不完全な部分を他の方法でカバーしながら生活をしています。ただ、一見まともに見える人間の心に本人も多分気がついていない大きな闇の部分があることを、今回の事件で改めて思った次第です。私にもそんな闇があるのでしょうか。それとも、闇の部分を持っているのが正常な普通の人間なのでしょうか。 『WING BRAIN 第55号』でまたお会いしましょう♪ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ , http://addproject.cool.ne.jp/ , 発行者 WING BRAIN 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