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          WING BRAIN メールマガジン第64号
          
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★目次★



■ MRI と SPECT の結果     MUSICA
■ 脳の代替機能          ロクスケ
■ セカンドオピニオン/診断医と主治医の意見が違って          むん
■ 連載 第31回 精神力は無限?         ロクスケ
■ ○編集後記○
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■ (MRI と SPECT の結果

 MRIは脳外科のクリニックで、SPECTは東邦大で受けてきました。
 
 MRIのほうは、先生が説明をしてくれたときは、「脳梗塞の跡がありますね。また先天的奇形が右側頭葉にあります。でもこういう人って案外おおいから、大丈夫。脳の萎縮はまあ年齢相応でしょう。」とのことだったのですが、主治医はもっと厳しかったですね。「まず、脳外科の先生ならこんなもんだとおっしゃるかもしれませんが、発達の専門医はそうは言いません。あなたの場合、前頭葉と側頭葉が小さい。これは、先天性の発達障害があったということです。つまり脳の発育不全です。

 また、SPECTをみると前頭葉と側頭葉にほとんど血流が見えません。ただし、後頭部は非常に血流が良く、つまりあなたの場合、視覚的に入ってくる信号については、ものすごく良い反応を示すわけです。ただ、それを伝達する部分が側頭葉にあり、その部分が働いていないので、うーんどのくらい脳全体に影響を及ぼしているのかはわかりません。

 ただ、一ついえるのは、あなたがいままで努力して努力して努力してきたからこそ、いまのIQレベルや仕事を長いこと続けられてきたということは確かです。あなたは、本当にがんばりやなんでしょう。」

とのことでした。私は、AD/HDなどは基本的に脳の機能障害だと思っていましたから「脳の発育不全」「脳の発達障害」と明言され、かつ「前頭葉と側頭葉が小さい」という言葉で、自分でも全く先に進めないような閉塞感を感じてしまいました。そうかー。私は努力に努力に努力を重ねた人生だったのか・・・。

 というわけで、なんだか、めまいがして寝込んでしまいました。


by MUSICA





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■ 脳の代替機能

 今号にMUSICAさんがMIRやSPECT検査を受けた記事を書いています。その中で、MUSICAさんは脳の発達障害を努力でカバーしてきたと医師に言われ、落ち込んでいると書いてますが、それは違うと思います。

 脳の発育不全は大した問題ではないと思うんですが、というのは、脳には想像を絶した回復能力、代替能力があるんです。前にどこかで書いたかと思いますが、パスツールは脳の左半球が脳出血(脳梗塞?)で完全に駄目になっていながらその後で大きな業績を上げました。

 水痘症で前頭葉の一部しか活動していない女性が大学院で学んでいると以前テレビで見ました。生まれたときからそうだったので残りの部分に完全な代替機能が割当てられているわけです。中高年になってから事故や病気で同じ状態になったら生存もおぼつかない状態だそうです。

 16才でアル中薬中の父親に拳銃で脳の半分を吹っ飛ばされた少年がその後やはり大学入学を目指しているというニュースは最近見た記憶があります。

 昨日傍らでつけていたテレビで見たばかりですが、アテネのパラリンピック水泳に出る17才の少年が、生まれつき両足が無く、右腕の肘から先が無く、左腕にも指が三本しかない状態で、生まれたときからこうだから不便は意識しないと言っていました。非常に明るい顔をしていましたよ。

 人間の代替能力とはこのようなものです。MUSICAさんもその代替能力を生まれながらに割り当ててきたわけで、主治医の医師はそのあたりをどう考えて居るんでしょうか。どうも説明が不備だと思います。

 > ただ、一ついえるのは、あなたがいままで努力して努力して努力してきたからこそ、> いまのIQレベルや仕事を長いこと続けられてきたということは確かです。あなた
> は、本当にがんばりやなんでしょう。」

 それは本当でしょうね。これもまた以前メルマガに書いたんですが、努力する能力を様々な失われているかも知れない能力の代わりにMUSICAさんは授かったのでしょう。しかし、もしかしたら10のものを失っていた代わりに30のものを得ていたのかも知れませんよ。努力する能力、才能とはそれほど大きな物です。

 世の中には、努力をすることが出来ない人が大勢居るのです。それは出来るのにやらないのではなく、努力をする能力がないのです。怠け者ではありません。

 それを噛みしめて、いかに多くの能力をMUSICAさんが持っているかを、考え直してみてはどうでしょうか。でもそれが時には仇になって体をこわすのではないかという心配があります。本当はブレーキをかける能力もすこし養った方が良いとは思いますけどね。

 脳の分野地図というのを見たことがあるでしょう。脳にはそれぞれ機能が地図のように分かれていて、視覚を司る、聴覚を司る、言語を司るそれぞれの専門領域を表した地図です。人間の場合は視覚で情報を得る割合が多いので視覚野が大きく、また言語が発達しているので他の動物にはない言語野があります。逆に、他の動物に比べて嗅覚野は貧弱です。亭主の浮気をかぎつける奥さん連の嗅覚野はよく発達しているようで、それは身にしみて理解出来ます。

 そして、この地図は殆どの人が同じなんですが、殆どというのは例外があると言うことで、例えば生まれつきの脳障害で言語野があるべき処に無いのに普通に話すことの出来る人がいます。つまり、その人の場合詳しく探してみると、まったく別の場所に言語野が出来ていて、まったく不自由なく機能していると言うことです。これは生まれつきだからで、もし脳卒中などで後天的に本来の言語野が破壊されると言語障害になります。リハビリである程度回復しますが、それは脳の全く別の部分に新しい言語野ができるからで、若ければ若いほど容易に作られ、したがってリハビリの効果も上がります。

 臨界期という時期があり、大体8才頃その人の脳の機能地図がきまります。従って、怪我や病気で本来の機能を受け持つ脳の部分が損なわれても他の部分が代わりにに受け持つように発達し、ほとんど障害が現れません。大人の場合はそんなわけには行きませんが、それでもリハビリである程度回復出来るのは、脳の他の部分がその機能を受け持つからです。
 
 本当のADHDであれば生まれつきですから、発育不全の機能を他の脳の部位が代替発達をしていると考えて良いでしょう。脳のすべてが駄目になっていない限り、大丈夫です。なにしろ、脳は元々20%位しか使わないであとは予備だそうですから。

 上記のことは逆の場合も言えます。今幼児英才教育がはやっていて、3才4才頃から英語や数学を詰め込む親が居ます。確かに臨界期以前ですので、その時期の脳は抵抗無く受け入れその結果天才児ができあがります。ただし、そのために本来の機能を受け持つはずの分野がその特殊能力のために使われてしまい、非常識な天才児になるおそれがあります。
 
 そして、そのように作られた人工天才児は、大人になるととただの人になり、生涯にわたって大きな業績を上げることが少ないようです。下手をすれば必要な機能がうまく働かなくなり、非常な不利を親に背負わされてしまうこともあり得ます。
 
 天才は生まれつき本当に天才なのであり、所詮メッキ天才は結局親の勘違いで虻蜂取らずになる可能性があります。

 実際、音楽の才能を認められている音楽学校の生徒を調べてみたらおしなべて言語能力が低かったという結果があるそうです。また、一分野で非常な天才を示す人が全くの非常識人でまわりに迷惑をかけていた例はたくさんあります。役者馬鹿という言葉があるのもよちよち歩きの頃から厳しく芸を仕込まれている伝統演劇の場合に言います。

 脳は人間が人間として生きてゆくために存在しているので、本来必要ではない機能を押し込むと必要な機能がはじき飛ばされ、必要な機能が失われればそれを補うように回復します。脳の代替機能とはそういうことであり、MUSICAさんのケースは立派に脳がその機能を果たしていると言うことです。落ち込む必要はないのでは・・
 
by ロクスケ






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■ セカンドオピニオン/診断医と主治医の意見が違って

 僕は、ADHDとアスペルガーの併存症です。僕自身は自分がして行かなくちゃいけないと思うことを 実践してきたつもりです。 地元の公立病院に通院していますが、昨年、機会を得て、F大学で診断を受けて、(ADHDの症状を持った)アスペルガー障害という診断名が確定しました。 薬の処方をして頂き、主治医の方にも引継をして頂いたのですが、 どうも、その診断に関して、主治医は納得がいっていないようで、 投薬内容はどんどん変わっていきますし、年金請求を頼んで、診断書を書いて頂いたのですが、その当初から年金請求に消極的でした。診断書に広汎性発達障害と記載されたために、厚生年金は受けられず、 国民年金2級の基準にも達していなかったので、 年金無支給になってしまいました。 年金請求に1年も費やしてしまって、精神的に参ってしまいました。 今年3月に再びF大学での診察を受けることになっていましたが、千葉から診察を受けに行くのには交通費がかかりますし、32条も適用にならないので、費用に余裕がなく、 行くことができませんでした。
 
 先日、病院に行って、診察を受けてきましたが、 僕が自分の障害に一生懸命で取り組んでいるのに、それに対して何をやっても中途半端で効果が上がってないじゃないかと指摘されてしまい、福島に行ったのも無意味だったというような発言もされました。
 
 僕自身は、期待を持って、すがる思いでF医大に受診したのに、 その治療方針を汲んではくれずに主治医の考えを先行させて治療されているのがなんだか僕の希望を踏みにじられているような気がしてならないんです。
 
 普段の診察は問診のみ、治療は投薬治療だけなので、 もっと、カウンセリングやコーチングを取り入れて効果的な治療をして欲しいと思うんです。

 最近の僕は、毎晩のようにパニック症状が出て、心理的にも退行しているように思えます。体力もないので、週4日のデイケアも疲れ気味です。プログラム中に辛くて横にならせてもらうこともよくあります。それが即、主治医の診断が間違っているとは思いませんが、僕が望んでいる治療とは違うように思います。今、相談できるのはデイケアのスタッフですが、 デイケアメンバーの7割は統合失調症の人なので、発達障害者のニーズに合う対応は十分とは言えないかもしれません。でも、30分に5人の診察を抱える医師と、ほぼ1日一緒にいて、日常を知り抜いている医師とでは、後者のほうが良いのではと思います。
 
 デイケアのスタッフはケースワーカーや臨床心理士のチームなので病院での問診だけの審査とよりはよっぽど良いのではと思います。
  
 それでも、このまま病院には通院を続けていた方がいいんでしょうか?

 うちの母は、主治医の診断に好意的な様でしたが、何をやっても無駄という発言については、おかしいと感じているようですし、毎回投薬される薬が変わると言うのも、効果が出るまで時間がかかるものなのでおかしいな、という気僕の抗議によって思うようになったようです。年金請求の診断書の件もありましたし(発達障害と書かれたので年金の受給ができなくなったし、当初から年金請求にはかなり消極的だったこと)、僕自身はかなり懐疑的になっています。医師との関係はどうすべきなんでしょう?僕の場合、結果的に9月に32条の期限が切れて、手続きをするのでデイケアのスタッフのT医師に診察を任せる事にして、次回の診察のときに伝えてこようと思うに至ったのでした。
  
By むん


 良い医師と巡り会えるかどうかはどのような病気であろうと障害であろうと一生を左右する問題です。だから、自分が納得出来ないのであればセカンドオピニオンを求めて複数の医師に診てもらうことも必要でしょう。
 
 むんさんが通っている医師が良い医師かそうでないかは第三者にはわかりません。むんさんの主観だけでは判断出来ないからです。むんさんの言葉だけでこうした方が良いとむんさんの望む答えを出すのもあまりに無責任でしょうし。
 
 日頃一緒にいる医師の方が良いか、といえば、医師にその資質がある場合はその通りだと思います。
 
 単に仕事上一緒にいるだけの医師、観察眼のない医師、問題点を把握する能力のない医師、想像力の欠けた医師はいくら一緒にいる時間が長くても意味はないでしょう。日常一緒にいるだけに患者のわがままを、逆らうのも面倒だからとハイハイいう医師も大問題です。その方面の専門知識を持っていない別の分野の専門家が側にいてもあまり役立たない場合もありますし、却って弊害が出る場合もあるでしょう。
 
 それと、自分で納得できる医師云々とは、自分が望む答えを用意してくれる医師という意味でもなく、本当に自分に役立つ助言をしてくれる医師という事です。ただし、正しいからと厳しい言葉をそのままぶつける医師が良いとも言えません。患者を励まし、希望を持たせる事も出来なくてはならないからです。
 
 結局は自分に合う良い医師を見つけるのが大変なのですが、やはり自分で実際に何人かに当たってみて決めるより仕方がないとしか言えません。
 
 今セカンドオピニオンということが言われるようになりましたが、それは最近のことで、医師の中には自分の診断に他の医師がとやかく言うことを嫌う人も居ます。医師にも時代の要求に従って頭を素早く切り換えられない人も居るわけです。
 
 カウンセリングやコーチングをしたくてもその方法をきちんと教えられていなければ出来ないでしょう。米国などでは医師と同等の資格を持ったカウンセラーが大勢居ますが、日本では医師がカウンセリングもするのが建前です。しかし、カウンセリングを一方的な医師による指示と考えている人も大勢居ます。というより、そうとしか教えられていないようです。
 
 だからこそ、ドクハラなどという事が言われるようになったのであり、患者と向き合う姿勢からして身に付いていない医師が大勢居ます。カウンセリング、コーチングなど自分の仕事だと認識きしていないらしい医師も居ます。そのような医師の場合はそのようにして欲しいと望んでも無駄です。
 
 結局は専門分野については勿論医師頼りですが、自分自身については自分で責任を持たなくてはならないという当然の結論に至るのではないでしょうか。

 蛇足ながら、普段からわたしは医療や医師にたいして厳しいと言われますが、医師の良し悪しが極端な場合命に関わるからです。むろん、大勢の、大多数の医師がその使命を果たすべく日夜努力をしていると信じますし、わたし自身今まで数え切れないほど医師に助けてもらっています。
 
 ただ、やはり命を預ける医師は普通の人間と同じ基準では考えられないと言うことです。
 
by ロクスケ





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■ 連載 第31回 精神力は無限?

 少し前の27回で、努力する才能について書いた。今回はその補足のような面がある。努力をすれば何でも出来ると思われている今の社会で、努力をしないのは怠け者だからだと決めつけられる弊害については述べたが、努力には精神力というもう一つの要素がある。結局、努力を続けられるのはそれを支える精神力があるからと言える。
 
 その精神力がまたくせ者で、人によりその強さは様々なのだ。ちょうど体力のようなものだと言える。鍛えれば強くなる。ただ、身体に障害のある人がいくら体力を付けてもその運動能力には限度がある。精神力も鍛えれば強くはなるだろうが、それに見合った結果を出せるとは限らない。それを以前努力する能力の限界という形で書いたわけだ。
 
 大体、体力も人によりその限界は違うのが当然であり、ある人は鍛えることで100メートルを10秒で走ることが出来るようになるだろうが、むろんそれは世界でも数えるほどの人数しか達し得ないレベルだ。
 
 精神力もむろん鍛えることは出来るが、だれもが同じレベルに達することが出来るわけではないという現実もある。
 
 ただ、体力と精神力の大きな違いは、年齢にあまり関係がないと言うことだ。鍛えることによって老化を抑えることはある程度出来るもののの、やはり体力は年とともに低下し、それによって運動能力も下がってくる。大体20代後半くらいをピークにして誰でもあとは運動機能の低下は自然現象と考えて良い。
 
 一方、精神力は、年齢には関係が無いと考えてほぼ間違いはない。ただ、その限界が出てくるとすれば、寿命に近い年齢になると意欲が低下するという側面はあるだろうが、20代の人間が50代の人間より精神力が上いうことはない。むしろ、その反対の方が多いかも知れない。
 
 体力によって何かを成し遂げるのは一生の内きわめて限られた時期に一度しかチャンスがないと言っていい。体力と経験のピークが重なったきわめて短い一時期だが、精神力によって成し遂げるチャンスは、考えようによっては一生あるとも言える。だから問題なのだ。
 
 精神力によって何かを成し遂げるチャンスが一生あるから、努力さえすれば何でも出来る、精神力で何でも解決出来るような事になってしまう。ある面むろんそれは正しいのだが、欠かせない要素である努力が出来ない人にとって、そして怠け者なのではなく努力をする能力を持っていない人にとって、精神力も無限ではないのだ。もし本当に精神力が無限の力を持っているのであれば、鬱病やそれによって自殺をする人の多くは存在しないことになる。
 
 つまり、現実には精神力は無限ではないと言うことであり、それに頼ると命を失いかねない。
 
 ただ、これは数値化したり客観的に判断出来るものではなく、あくまで本人次第なのであり、努力する能力が自分にはないのだ、と決めつけることも出来ず、かなり難しい。結局、努力はやはりしなければならないのであり、そしてその努力は本人が出来る範囲という事になるかと思う。
 
 励ましや激励で、もっと努力を、もっと頑張れと発破をかけるのは当然だろうが、相手を理解した上での叱咤激励にする必要があるだろう。彼に出来るのだからお前にも出来るはずだ式の言い方はまずい。


by ロクスケ


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○編集後記○

 ■ 口を開けば暑いという言葉が出ます。挨拶の冒頭は暑いですねぇであり、メールの最初にも決まり文句で書いてあります。本当に暑いのだから仕方がありません。
 
 ■ ただ、この暑さも人により感じ方が違い、わたしは北海道育ちなので、数十年前東京に来たときの最初の夏はどうにかなりそうな暑さを感じました。当時は今ほど車の排熱もエアコンの排熱もなかったし、そもそも気候自体今ほどの猛暑ではありませんでした。エアコンもあまり普及していず、当時勤めた会社も自分の家もエアコンなど無く、窓を開け放してせいぜい扇風機をかけていたものです。そのような家が多かったのです。今は何処に行ってもエアコンがあえい、それがまた暑さに対する抵抗力を低下させているのではないかと思います。
 
 ■ 昔の人は、エアコンも扇風機もなく、風鈴や打ち水、葦簀などで涼しさを得ていました。その工夫は今も行かした方が良いと思います。夏は暑いのであり、人間の体は本来それに耐えるように出来ているはずです。ただし、高齢者や病人、子供などは同じと考えられませんが、それでもエアコンをもう少し控えた方が良いような気がします。
 
 ■ わたし自身はエアコンが嫌いですが、やはり猛暑ともなればエアコンを使います。ただし、いまも窓を少し開け、カーテンを引いて日光を遮断し、エアコンは30℃に設定しています。30℃以上に上がらないからです。外は多分34,5℃であり、室内は温度計によれば40℃にもなりますから、30℃でも十分です。
 
 ■ 夕方は外にでてみます。外の方がよほど気持ちが良いからです。今年は猛暑があと一月続くとのことです。エアコン以外の方法も駆使して暑さを乗り切りたいと思います。
 
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