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          WING BRAIN メールマガジン第70号
          
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★目次★



■ 自分の生き方を曲げない人々   MUSICA
■ ビジネスマンのリラックス空間      小町
■ 文書による意志の疎通 2        ロクスケ
■ 連載 第37回 根拠のない楽観が役に立つのか  ロクスケ
■ ○編集後記○

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■ 自分の生き方を曲げない人々


 先達、病院の大部屋でけたたましい声が続いた。何事かと思うと、泣きながらナースステーションに駆け込む女性がいた。
 どうも、隣のおばあさんにさんざん、嫌味を言われたらしい。「貴女が薬を夜中にもらいに行くので、夜眠れませんでした」とか、「貴女のいびきのせいで、昨晩は一睡もできませんでした」とか、ともかくぼこぼこに言われたそうだ。彼女は「私だって、あんたのいびきで一睡もできなかったことが、何度もあるのよ、何言ってるの!!」ととうとうぶち切れて叫び、その人はくるりと反対側を向いて「あらそう。私がすべてわるうござんした。」と言ったらしい。もともとその人を気に入っていなかったおば様も「言葉が過ぎるんじゃないの!彼女がかわいそうじゃないの。ここは集団生活なんですからね。何でもあなたの言うとおりのわけには行かないんですよ。わかっていますか?」と怒鳴ったそうだ。
 私も、その方に「近頃の人は(私はもう近頃の人ではないのだが)ろくに挨拶もしない」と聞こえみよがしに言われ、それ以来頭を深々とたれて、『おはようございます』『おやすみなさい』などと、かなり気を使って挨拶している。結構くたびれるものだ。
 
 実は、ナースたちも困っているという話を聞く。結局、若い子は一度退院し、すぐに別の大部屋に入った。

 最近入ってきた人は、どうも強迫神経症なのか、それプラスなにか病気があるらしく、ナースには存分に悪態をつくが、患者には「よ、よろしくおねがいします。まだ入ったばかりなので。あ、あのー、僕が何か変なことをしたらすぐ言ってください。止めますから。あの、握手していただいていいでしょうか?あ、じゃあ、僕部屋に帰って勉強してきます。」といいつつ、5分もかからずに帰ってくる。
 
 この言葉を入院以来えんえんと発している。多くの患者がナースと主治医に「困っている。迷惑している。あのナースへの切れ方を見ると、患者に逆転したときに怖い」などと訴えている。患者には嫌われたくないらしいが、余計やぶへびになる。この間の休日には、私の主治医が宿直だったのだが、ナース・患者ともども疲れてしまって、とうとう昼間に睡眠剤を飲ませたらしく、平和なひと時があったのだが、夕方には目が覚めて、翌朝、毎日の恒例のナースステーションでのナースとのやりあいで、多くの人が起こされた。そのあと、謝って歩く。衝動性が高いのだろう。AD/HDをともなう、IQ境界例のアスペルガーかなと思ったりする。人の気持ちがわからないらしい。

 こういう人たちは、自分の生き方を変えようとしない。反省とか、向上心とかといった言葉と無縁なのでは?と思ってしまう。でも、病気だから仕方がない。そうなんだろうか?

 前に入院した大部屋で、8人部屋に入ったとき、この部屋の多くの人のレベルに合わない患者さんが1人いた。統合失調症で、朝から晩までしゃべっている。もちろん夜中もだ。だから、他の患者はなるべく土日は家に帰るのだという。
 
 私は驚愕した。皆に、どうしてナースやドクターに訴えないの?と聞いたら、「何度も何度も訴えたのよ。でもだめなの。」とのこと。私は主任ナースを、廊下でつかまえた。「あの人は何とかならないのですか?」「彼女も患者さんですから」「それはそうですが、他の7人の人々も患者さんだと言うことを理解していますか?一人の患者さんのために他の7人が『良くならない』と言っている現状を認識していますか?」と迫った。
 
 主任は、プウッと行ってしまったが、その後何分かして、ナースと先生で話し合ったのだろう。いきなり、その患者さんの周りを囲っていたカーテンをすべて取り外し(ベッドの上にもカーテンが乗っていた)、引っ張っていってどこかに連れて行った。部屋では、「貴女ってすごーい!!」と感激されたが、その患者さんは結局個室料金が払えないのだろう、ナース室のまん前の廊下に置かれた。これでは、見世物じゃないか。私への面当てか、それとも本当にここしかないのか、私にはわからない。軽い程度の患者が入る開放病棟なのだ。もともとこの病院にいることが無理な重症患者なのだ。

 やはり、病院は難しい。あんまり休まらないことも今日帰ってきてわかった。昨日の晩は、薬も飲み忘れて自分のベッドでぐっすり夜中の3時まで寝てしまったのだ。

 以上です。無理を言って、閉鎖病棟を拒否する人は多いのだろう。でも、結果的に開放病棟の人はそういう人がいることで、疲れてしまうんです。

by MUSICA




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■ ビジネスマンのリラックス空間


仕事で新幹線によく乗ります。普通の電車とは違う光景がそこにはあって、大変面白いです。座席の形状がそうさせるのか、隣の席には知らない人が座っているにも拘わらず、プライベートな行為が繰り広げられます。

特に、私が出張に出かける午前中の早い時間は、多くのビジネスパーソンが同じく出張に出かけるので、男性も女性もスーツ姿の人が多いのですが。

新聞や雑誌を読む人、パソコンを取り出す人、資料を繰り出す人…女性で多いのは、やはり化粧をする人。電車の中などでのお化粧はマナー違反、見苦しいといわれますが、新幹線の中では、鏡をテーブルの上に置き、しっかりメイクを始める人も少なくありません。かくいう私もその一人なのですが…

そして、男の人で多いのは18才未満禁止の本を読んでいる人。隣に女性が座っていても、あまり気にしないようです。新聞、雑誌、小説類…きっとご家庭では読む場所がないのでしょうねーと同情しながらも、もう少し、周囲に気を使ってくれても良いのでは、と思うこともしばしば。ヌードや風俗情報を真剣に見入っているサラリマンも、おうちでは家では可愛いお嬢さんがいるんじゃないのかなーと思ってしまいます。


夜の新幹線は、また別の雰囲気。出張帰りに缶ビールは、女性も男性も同じようです。そして、大抵靴を脱いで、眠ってしまう。新幹線には独特のリラックスさせる雰囲気があるようです。他の移動手段には、あんまり見られない光景じゃないでしょうか。


by 小町


旅の恥はかきすてと言いますからね、旅の途中の新幹線も同じなんじゃないでしょうか。飛行機も国内線だとせいぜい2時間くらいですから、同じような雰囲気ですね。昔は汽車に乗るのは大仕事で、半日同じ顔で過ごすことが当たり前でしたし、普通車で夜を過ごすこともありました。そうなると、お互い親近感が湧いて、目の前のだるまストーブでするめを焼きながら差しつ差されつなんて事もありましたよ。

ちなみに当時は蒸気機関車で、冬の暖房は客席の間におかれただるまストーブで、客が石炭をくべていました。今でも寝台車などだと、近くの人が親しくなって浴衣のまま酒盛りをすることもありますが。

海外へ行くときも飛行機に十数時間乗っていると、隣の席の人と親しくなったりしますし、国籍によるかどうか知りませんが人なつっこい連中も結構居ます。まあ、海外と言ってもこの十年以上行ってませんから最近のことは知りませんが。

たしかに、新幹線が出来てから、車内はそれぞれのプライベート空間になったような気がします。

from ロクスケ


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■ 文書による意志の疎通 2


 このテーマについては、59号でも取り上げ、そのことに関して文書での意志の疎通が我WingBrain委員会でも話題になっており、少し前のことですが、佐世保で起きた小学生の11才少女が12才少女を殺害したという痛ましい事件の発端がチャットであったという事もあり、多少前回と重なる部分があるとは思いますが、補足として書いてみた次第です。

 文書での意志の疎通というのは、元来私たちが考えているほど簡単なことではありません。まずその認識を強く持っておくことが必要だと常々思っています。

 人間の意志の疎通は、本来表情やジェスチュアが基本だと考えられます。哺乳類も大分進化した段階になれば、表情、仕草、鳴き声で意志の疎通を図れるようになり、人類も最初はそうだったはずです。

 その後言葉が発生し、言葉による意志の疎通を図るようになりましたが、考えてみるとこの面と向かった会話でさえ意志の疎通がうまく行かないことがあります。音声による言語で意志を伝えあうのは、人類と一部の鳴禽類といわれるさえずる鳥、それと一部の動物など、結構居ますが、なにより人類ほど複雑な言語体系をもっている存在はありません。それだけ複雑な言語体系を支えるのは音声だけでは足りず、やはり音色、表情、ゼスチャーが補助手段としてあることが前提です。
 
 つまり、文字は言語体系を支えるようには出来ていないのです。

 まして、長い数十万年もの人間の歴史から見れば書き言葉で意志を伝える方法が出来たのはほんの一瞬前のことであり、本来文書は意味の伝達手段でしかないと理解すべきだと思います。意志、あるいは感情の伝達は文章では本来不可能なのであり、文章を読んで読者が持つ感情は、あくまで読者側の要素によるのです。

 私たちが会話で相手を理解するのは、相手の表情、仕草、声の調子などの要素を意識せずにかなり多くとりいれているからです。家で滅多に口を利かない親父が親父らしいと言われてますが(確かにぺらぺらしゃべるまくる駄洒落親父はうるさい)それは、それまでの親父に対する知識、親父の表情や仕草で納得しているからです。
 
 むろん内容によりますが、普通のおしゃべりではかなりお互いの言葉をいい加減に聞いていて、互いの表情、雰囲気を確認し合っているケースが多いのだそうです。たしか、バーナードショーの逸話だったと記憶してますが(作り話かも知れませんけれど)あるパーティーでホストを勤めたとき、彼は来客一人一人とにこやかに握手を交わしながら、「今日、妻の母を撃ち殺して来ました」と言ってみたそうです。しかし、それに気づいた客はほとんど無く、「それは結構ですな」などの返事が返ってきたとのことです。但し、一人だけ「それは自業自得でしたね」とにこやかに返事をした客が居たとも書いていました。

 私たちは感情や意志の疎通を表情や仕草だけで外国人、赤ん坊、時には犬や猫ともかなり正確に交わせます。しかし、それらを全く使わずに言葉だけでやろうとしてもそれは不可能です。文書は問題外です。

 今回の佐世保の事件は、チャットで悪口を言われたからと言うことらしいですが、勿論私たちは大人であり、普通ののチャットやメール、BBSなどの言葉を理由もなく悪意に取る事はないでしょう。ただ、潜在的な感情のへこみや傷つきはあるかも知れません。それと、現実にメールやチャットでトラブルに発生するケースは大人同士でもかなりあるとのことですから、やはり普及している割にメールの交換で意志の疎通を図る方法に多くの人が馴れていないのでしょう。あまりに急速にこの方法が広まったからだと思えます。

 ある人が、私の記事を読んで、指摘=叱責と感じ、上から言われると受けとる人は疲れてしまい、仲違いをすることになるのではないか、と言っていましたが、そのようにしか受け取れない人は、結局自分で自分の道を閉ざしていると思えるのです。そのような人に対しては、メールを送る方も嫌気がさしてくるでしょうし、いちいち言い訳をしながら要求をしたり反論をしなければならないのであれば、自然に疎遠になることもあり得ます。

 ただ、どんな人でも常に平常心であるわけではなく、他のことで不機嫌なときに書いた文章の中にもしかしたら毒が入っているかも知れません。それを自覚したときはメールを書かない、メルマガ記事を書かないで済めばいいのですが場合によってはそのようなわけには行きません。

 伝えるべき時は、自分の感情はどうあれ、メールも書かなければならないのであり、今凹んでいるから、疲れているからメールは書けないといえないはずです。仕事上でメールのやりとりをすることは今は普通にあるからです。

 そのような場合、もしかしたら知らない間に不適切な表現があるかも知れませんが、その感情は決してメールの相手に向けられた物ではありません。

 何かメールの内容に問題があると思えばそれを素直に訊ねた方がよほど発展的だと思います。それと、基本的に文章で感情は伝えようと思わない方が良いと言うことです。言い換えれば、嬉しいときは’嬉しい’、ありがたいと思ったら’ありがとう’と書けばいいし、いやな奴だと思ったら’お前のこんなところがいやだ’と書けばよいわけで(じっさいそんなメールが来たらどうしよう)、それ以外はとにかく相手は悪意を持っているのではないという前提で読むしかないでしょう。
 
 今、若者の言葉が乱れ、まともな言葉遣いが出来なくなっているとの問題(一部の人たちのことでしょうが、確かに言葉に対する感性がほとんど無い人たちが居ます)や文字離れの問題が、人間同士の意志の疎通を非常に困難にしてきていると言われています。人々が昔より孤立し、意志の疎通、むしろ感情の疎通がうまく行かなくなっているので、今回のような事件が大人同士でも起こりやすくなっているらしいのです。
 

by ロクスケ



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■ 連載 第37回 根拠のない楽観が役に立つのか


 鬱状態になってみるとよくわかるが、不思議なほど物事が悲観的にしか考えられなくなる。天が落ちてくるかも知れないと恐れることを杞憂と言うが、今は無駄な心配の事を杞憂と言う。しかし、考えてみると、鬱状態の時の悲観はまさに杞憂であることが多いようだ。もちろん、それなりの根拠があることもあるだろうが、後から考えてみてなんであんな些細なことにくよくよしたんだろうか、と思うことが非常に多い。ただ、悩んでいるときはそれに気が付かないからどんどん落ち込んでしまうのだが。
 
 根拠のない悲観で落ち込むことがそんなにたくさんあるなら、根拠のない楽観で気分が高揚することもありではないか、というのが今回の主旨だ。同じ根拠のないことで心の状態が変わるなら、それは楽観の方がどれだけ良いか言うまでもない。
 
 結局、根拠のない事柄でも人間は心の状態に影響を受けるという事実がある。そして、何かのきっかけで心の状態が傾くと、放っておけばそれがどんどん増幅してゆく傾向も経験することであり、通常はこれもまた自然の反応としてブレーキをかけ、バランスを取り戻すと言うことも無意識にやっていることだ。
 
 鬱状態の時は、物事を悲観的に考え、しかもその根拠が無いにもかかわらず限りなくそれが増幅してゆき、最悪の場合は生きてゆく意欲さえ失い自殺という結果をたどることさえある。
 
 つまり、人間の感情の動きには根拠は要らないのだといえる。しかし、人間の心の状態が意欲を生んだり、逆に意欲を削いだり、持続力を向上させたり低下させているのは疑いようもない事実なのだから、結局は根拠という要素は思ったより少ないと考えた方がよい。
 
 それなら、当然ながら物事をやり遂げるための心の状態を創り出すために、とにかく結果を出した悦びを強くイメージし、そうなることを確信することでプラス方向に心を突き動かすことが先決なのであって、そのための色々な根拠を考えるのは後でも良いし、なんなら根拠は要らないと言える。
 
 むろん、人間には理性があり、理論的に物事を考えるのだから根拠が全く不要だとか無視すべきと言うのではない。ただ、何かを成し遂げるとき理由より動機のほうがより大きな要素であり、そしてそうしたいという希望がもっと大きな要素だと思える。根拠のない楽観がそれでも十分に有効だというのはそう言うことだ。
 
 仕事で何かのプロジェクトを計画し、準備し、実行を積み重ね実現する。それは当然のプロセスだが、たとえば会社の意向で仕方が無くやるけれど、本人としてはいやでいやでたまらない仕事がうまく行くだろうか。
 
 例えは読者にも色々な立場の人が居るので具体的に挙げるのは難しいが、反論がないだろうと思われる極端な例を挙げる。人をだまして財産を取り上げれば会社の利益になるが、自分としては良心の呵責があり、どうしても気が進まないばあい、割り切って会社の利益のためにそれを進められるだろうか。もし、会社が大きな利益を上げれば当然自分にも大きな報酬アップという形で返ってくることがわかっていてもだ。
 
 しかし、ある人の財産を上手に運営すればその人がより豊かになることがはっきりしていて、しかもそれを扱うことで会社も利益が上げられるのであればためらう必要はなく、嬉々として仕事に打ち込めるだろう。
 
 あくまでイメージ上の対比だが、心の状態が仕事に打ち込む姿勢を創り出すという事だ。
 
 何かをするにもとにかく、心がそれを求める状態を創り出すことが先決で、根拠は要らない。そして、根拠はその後から創り出すことでも十分意味があると言うのが私の主旨だ。


by ロクスケ

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○編集後記○
 ■ようやく新しい本「当事者が語る 大人のADHD」が書店に並び、そして早速読んでくださったという書き込みがBBSにありました。読んで参考になったというメールもいただきました。ありがとうございます。もしお読みになった方々から感想などいただければ励みになります。よろしくお願いいたします。

 ■最近、改めて常識と言うことを考えさせられる事がありました。先頃の調査によれば、小学校高学年から中学生にかけて太陽が地球の周りを回っている事を知らない生徒が40%居るとのことです。つまり、太陽が地球の周りを回っていると信じているとのことですし、中には月の満ち欠けは色々な形の月が代わる代わる出てくると考えている生徒も居るとか。
 
 さらに驚いたのが、そのことをどう思うかとテレビ局スタッフが街頭で大学生や一般の大人に聞いたところ、太陽が地球の周りを回っていると信じている人が居たことです。やらせなのかと思いましたが、大学生の中にも本当に太陽が地球の周りを回っていると考えている人が居るとのことです。
 
 ■たしかに、太陽が地球の周りを回っていようと、地球が月の周りを回っていようと日常生活には関係がないと言えます。ただ、地球が太陽の周りを回っていると言うのは現代人の常識であり、最低限の知識だろうと思っていたので驚いた訳です。
 
 ■その後、同年輩の人たちと仕事がてら雑談をしていたとき、何気なくこの話題を出しました。むろん、全員天動説が間違いだと知っていましたが、しかしここで驚いたのが、季節があるのは地球が太陽に近づいたり遠ざかったりするからだと思っている人が居たことです。当然、南半球では12月が真夏であり、7月が冬であることを知りませんでした。
 
 あまり突っ込むとまずいことになるのでうやむやにしましたが、その人も普段きちんと仕事をする人で、おそらく日常生活には全く不自由を感じていないのでしょう。私は、地動説も地軸の傾きにより季節が出来ることも常識だと思っていましたが、それらは常識ではないのだと、つくづく思いました。常識とは、日常生活に関係することだけに限って言えることなのだと今はおもいます。
 
 ■人はえてして自分が常識だと思っていることは他の人にとっても常識だと思いがちです。しかし、そうではないのだと知っていたつもりですが、まだまだ認識が甘かったと考え直した出来事でした。
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