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          WING BRAIN メールマガジン第86号
          
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★目次★



■ エチュードについて(1)    mogurin
■ 注意欠陥な犬       キャサリン
■ 自閉症スペクトルについて学習を始めました   MUSICA
■ 連載 第53回 ADHDであったとしても    ロクスケ
■ ○編集後記○
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■ エチュードについて(1)


  ピアノとギターは相変わらず続いています。ピアノはブルグミューラがだいたい暗譜し終わり、鍵盤を見て弾けるようになりましたが、そろそろこの曲集に飽きてきたみたいです。これから表情やタッチの強弱に気をつけて弾き込むべきなんですが、なにしろ暗譜が終わるまで、100回以上は弾いているのでややマンネリ気味です。ギターはカルカッシ作品60、相変わらず暗譜にてこずっていいます。覚えたと思っても、翌日になるとポロポロ欠落が生じていて、またやり直す、この繰り返しです。友人に言わせれば、ピアノ譜は覚えられるのだから、ギターやめてピアノだけに専念したらどうかということでしたが、僕は基本的にギターの音が好きなんです。ただギターだと音域の関係で弾ける曲が少ない。それでまあピアノもやっているわけです。

 今回は、エチュードについていろいろ考えていることを書いてみようかとおもいます。(以下あくまで音楽ど素人のアマチュアの戯れ言です)エチュード(練習曲)というのは楽曲の演奏技術向上のために作られた曲で、特定の音型や指使いの繰り返しが多い。エチュードは大まかに二種類にわけられる。曲の体裁をもっているものと、もっていないものの二種類である。前者はピアノでいえば、バイエル、ブルグミューラ、ツェルニー、クレメンティ、バッハ、ショパンのエチュードが有名。
 
 後者は、ハノン、ピシュナなどがある。それで面白いことに気がついた。ツェルニー(カール・ツェルニー/1791〜1857)はベートーベンの弟子である。かれは師を大変尊敬していて、ベートーベンのピアノソナタを弾くために、エチュードをたくさん作った。ツェルニー30番,40番,50番,…日本では真剣にピアノを習おうとする連中はみんなやらされるらしいが、後になるほど長ったらしく難しくなり、速度指定もむちゃくちゃ速く、これのしごきでピアノ嫌いになるものが多いらしい。あとこのようなエチュードをまともに弾けるようになるためには、ゆうに10年はかかる。
 
 このあいだツェルニーのエチュードの録音されたものを聞いてみたが、繰り返しが多く、音楽性もあまり感じられなかった。通して聞くと退屈だ。残された短い人生、つまらないエチュードに10年を捧げるのはいかにももったいない。よってツェルニーは弾かないことに決めた。まあ、それは置いておいて、このツェルニー先生、作曲家なんだが、エチュード以外の曲は作曲していないらしい。ピアノ教師もやっていたので、生徒指導と作曲で忙しかったのではないだろうか。音楽の世界ではこのように、まともな曲を作曲せず、技術向上のためのエチュードだけを作曲したエチュードのプロというものがいるようだ。ハノン、ピシュナもそうで、僕は一見すると無味乾燥なピシュナのエチュード(リトル・ピシュナ48の練習曲集)は、以外やこれがけっこう好きで、毎日弾いている。
 
 
ー 続く ー

by mogurin





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■ 注意欠陥な犬


 我が家にはリリーという犬がいる。

 息子が「ペットを救おう」とかなんとか書かれたポスターを見て、痛く同情し、是非もらってくれと言うので、日野にあった収容施設まで行ってもらってきた。

 手続きが面倒だ。一度行っただけではもらえない。二度目に面接して、契約書にサインして、やっともらった。

 金もかかる。犬を飼うためのフェンスを前もって用意しなければならない。フェンスは輸入して、取り寄せた。

 8歳のリリーにとって、三宅島から避難してきて、飼い主と別れ、避難所を転々とする生活はかなり厳しいものだっただろう。その上、私たちが引き取りにいった時は飼い主が手放した犬はリリーとリリーの夫しか残っていなかった。この夫妻は子犬をもうけたが、子犬はすぐに引き取られたそうだ。

 もらって帰る時、車に乗せると、抱っこしてくる。不安なのだ。すでに8歳で、紀州犬と柴犬の雑種なので、結構デカイし、重い。

 このリリーが私たち一家に心を許すまで一年かかった。一年すると、私たちがフェンスに近づくとジャンプして喜ぶようになった。

 さて、このリリーだが、もちろん散歩は大好き。朝の散歩が待ちきれない。夜は玄関に入れることがもらう時の条件なので、朝の散歩は玄関から出かける。玄関から道路まで二段の階段があるのだが、彼女はあせるあまりリードに足を引っ掛けて転んだことが二度ほどある。

 数日前はよそ見しながら散歩していて電柱に頭をぶつけた。

 また、同じ日に自分でしたおならにびっくりして跳び上がった。

 犬はADHDだとは思っていたが、こんなに注意欠陥だとは思わなかった。人に話すと、「飼い主に似るっていうから・・・。」と言われてしまう。 


by キャサリン



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■ 自閉症スペクトルについて学習を始めました


 今まで、LDやAD/HDにばかり目が行って来た私ですが、ここに来て、ようやく数的にも多い自閉症スペクトル障害についても勉強しようと思い立ちました。それは、最近いろいろな説が現れて、自閉症スペクトルとLD,ADHDは連続体であるとか、一部のアスペルガー症候群などと動作性LDとの類似などを検討する動きがあること、また自閉症は今までAD/HDは含まれているものとして併記していなかったが、敢えて違う軸で存在するとして併記する医師もでてきていることなど、いろいろな理由がある。

 また、アスペルガー症候群(AS)とAD/HDには似ている点も多く、よく観察すると違うのはわかるのだが、一見AD/HDと思えることが良くある。その方の、WAIS-Rを見せていただくと、あ、やはりASの特徴を呈していると合点してしまうことを何回か経験してきた。

 この際だからと、わかりやすいブックレットから始めて、だんだんと厚みのある本に変えて読み進んでいるところである。

 以前、積極的に音楽療法をやっていたころは、自閉症が音楽療法の適応症でもあったことから、多くの事例を見てきた。しかし、自閉症スペクトラムとして考えると、比較的IQが高いケースの場合は音楽療法は馴染まないことが多いのではないだろうか。セルフエスティーム向上のための療法としては良いかもしれないが・・・。

 いずれにしても、軽度発達障害は奥が深い。また私の部屋は、自閉症の本でごった返しているのであった。

by musica





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■ 連載 第53回 ADHDであったとしても

 私が初めてADHDに就いての情報に接した5年ほど前は、日本にADHDに関するデータがほとんど無く、大体がアメリカからの資料を基にしていた。ADHDの発生率も当時から諸説あり、男女間では差があるとか、全体の1パーセントくらいあるいは20パーセントくらいというものだった。一番支持されていたのは1パーセントくらいだったろう。
 
 現在では日本でも統計が取られるようになり、数パーセントといういう数字が一番多いような気がするし、中には20パーセントくらいという数字も出ている。
 
 なぜ1パーセントが数パーセントになり、20パーセントという数字まで出てくるのだろうか
 
 一つにはADHDの診断の難しさにあると思われる。ADHDの診断基準は幾つか発表されており、DSM-Wなどがよく使われる。皆さんもそのような診断基準を目にした事があるだろうが、わたしもそれを読み、こんなのは普通にある症状ではないか、と思ったのが最初の印象だった。つまり、ADHDでなくとも親のしつけが悪かったり、正確がだらしなかったり、あるいは何らかのストレスがあったりなどなどで、これらの基準にある症状、すなわち
 
 不注意
(a) 学業、仕事、またはその他の活動において、しばしば綿密に注意する事が出来ない。
    または、不注意な過ちをおかす。
(b) 課題または遊びの活動で注意を持続する事がしばしば困難である。
(c) 直接話し掛けられた時にしばしば聞いていないように見える。
(d) しばしば指示に従えず、学業、用事、または職場での業務をやり遂げる事ができない。
   (反抗的な行動または指示を理解できないためではなく)。
(e) 課題や活動を順序立てる事がしばしば困難である。
(f) (学業や宿題のような)精神的努力の持続を要する課題に従事することをしばしば
    避ける、嫌う、またはいやいや行う。
(g)(例えば、おもちゃ、学校の宿題、鉛筆、本、道具など)課題や活動に必要なものをしばしばなくす。
(h) しばしば外からの刺激によって容易に注意をそらされる。
(i ) しばしば毎日の活動を忘れてしまう。

エトセトラエトセトラは誰にでもあり得ることではないのか。これらが全部ADHD由来であるとはとうてい思えないが、残念なことに日本には専門医が居ない。結局、自分や自分の子供はADHDではないかと思っている来訪者に医師が妥協してしまっている例が多いような気がする。そして本格的に治療が出来るならともかく、単に薬でも出しておけば良いと言うのではたまった物ではない。

 勿論、ADHDである可能性はあるだろう。しかし、そうでない可能性もあり、本来の正しい対処をすればもっと簡単に生活改善が出来るかも知れなのだ。
 
 何の診断でもそうだろうが、まず自分のことなのだから自分で可能な限り勉強をすることがまず必要だろう。しかし、いくら勉強しても専門的な事柄を一般人が理解出来るわけではないのだから、自分で決めつけることは厳に戒めなければならない。あくまで、診断を受ける心構えと言うことだし、そして可能であればセカンドオピニオンに接する必要もある。
 
 また、ADHDであろうと無かろうと、生活上に不具合を直すという必要性はあるのだから、それに沿った自分自身の努力も必要だと認識すべきではないだろうか。
 
 また、仮にADHDであっても私の持論だがADHD自体が不利なのではなく、ADHDをうまく使いこなせないから不利なのだという事だ。ADHDであること自体は誰の責任でもないが、ADHDを理解せず諦めてしまったとしたら、明らかに本人の責任だろう。とにかくADHDであろうが、他の原因であろうが、生活に不利なら自分の責任で改善しなければならないと自覚した方が何事につけても有利ではないかと思う。
 
by ロクスケ


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○編集後記○


■ もしかしたら今号の連載、ADHDであったとしても、と関連があるかも知れませんが、先日テレビを観ていて子供達の箸の持ち方が異常に下手なのは、学校で箸を使わせないからだという解説に、何故だろうと思ったことがあります。そして、聴いてみて驚きました。危ないというのです。箸を持って走り回り転んでくわえていた箸が口の中に刺さった事件があり、それ以後箸を使わせなくなったというのです。確かに、学校給食で先割れスプーンを使っているとは聞いていましたが、そんな理由だとはついぞ知りませんでした。
 
 ■ 今学校では刃物を子供に使わせないそうです。怪我をするから、と言う理由ですが、刃物に慣れさせなければむしろ大きな怪我をするのではないかと思います。私の子供の頃は誰でも筆箱にナイフやカミソリを入れているのが当たり前でしたし、それを使って鉛筆を削るのが日課でした。今ではシャープペンシルやボールペンを使うからナイフ入らないと言うのです。それでは、大人になってから台所に立てと言っても無理でしょう。
 
 ■ 私は小学生の頃から日常的に母親の手伝いで台所に立ち野菜を刻んだりしていましたし、自分用の切り出しナイフや折り畳みナイフ(肥後の守)などで竹とんぼなどを作っていました。確かに何度か指を切ったことはあると思いますが、それだけです。大きな怪我などしたことはありません。
 
 ■ そのほか、私の子供の頃は木に登るのも喧嘩をするのも、大人は黙ってみていました。そうすることで危険を回避することを自然に覚えましたし、喧嘩で大けがをするようなこともさせるようなこともありませんでした。今、簡単に人を殺す子供達のことを聞くと、どうもそのような訓練が出来ていないからではないかと思われて仕方がありません。
 
 ■ 確かに子供を危険な目に遭わせたくないと言う気持ちは当然でしょうが、だからこそ子供の内に監視しながらそのような危険を自分で避ける訓練をして置いた方がよほど危険から遠ざけることが出来ると思うのですが。
 
 自分のことが満足に出来ない子供が増えて、それが異常に高いADHDの発生率と関係があるのではないかと思った次第です。
 
★目次★


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