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          WING BRAIN メールマガジン第87号
          
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★目次★



■ エチュードについて(2)     mogurin
■ 大きな勘違い          MUSICA
■ スキヤキ            キャサリン
■ 連載 第54回 本当のADHDの仕様は見えない。見えるのは影響だけ       ロクスケ
■ 
■ ○編集後記○
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■ エチュードについて(2)


 たとえば1番は左手がミ−ド−ミ−ソ、右手がドレミファソファミレドのパターンで半音ずつ上がっていくのである。全調終わったら右と左を入れ替える。35番のスケールはもっと難しい。左手がミ−ソ−ド−ソ−レ−ソ−ファ−ソ、右手がドレミファソラシドシドシラソファミレで、これも両手が半音ずつ上がって全調の練習をする。
 
 すべてこの調子である。昔、イラストのテキストで、線を引く練習というのがあったのを思い出した。画材に慣れ、手先の器用さを向上させるために、点線、上にカーブした線、下にカーブした線、S字カーブ、線分と点線、クロスハッチなどをびっしり描きまくるのである。ちょっとやってみたが、すぐ飽きてしまった。線の練習は、デッサン、スケッチなどを通じてやるのが本当だとおもった。
 
 そう言えば、美大や芸大には時々石膏デッサンの達人という者がいるらしい。石膏デッサンを描かせれば、神の領域に到達しているが、それしかやらない。描写力があるので描けば何でも描けるはずなのに、自分の作品はいっさい作らない。彼らは後にデッサン教師の職についたりするそうだ。エチュード作曲家と酷似している。ただ音楽の場合は、スケール、コード、アルペジオは楽曲の構成要素だから、どうあってもマスターしなくてはならない。エチュードでもバッハやショパンのものは別格である。
 
 エチュードの域を超え、完璧な芸術作品といえる。それで次に、ショパンについて調べた。ショパンのエチュードといえば、ピアノチュードの最高峰。技術的にも内容的にもピアノエチュードの到達点といっても過言ではないとおもう。かれがこの作品10&25を作曲したのは、すごく若い頃、19歳〜25歳の6年間である。なぜこんな難曲を作曲したのか?ズバリ、自らの演奏技術向上のためである。すでにピアノの名手として名を馳せていたショパンは、自分のピアノソナタをもっと上手く弾くためにこういったエチュードを作曲した。彼の頭には一般のピアノ学習者のために教育的な目的でチュードを書くといった発想はなかったにちがいない。
 
 その点バッハが長男フリーデマンのために作曲したインベンション&シンフォニアと全然違う。これはバッハがだいぶ年を取ってからの曲だ。芸術的内容は深いが、かなり易しい初級の上レベルの曲である(まだ弾けないけど)そこで仮説。作曲家は若い頃、自分のために難しいエチュードを書き、年を取ってから一般向けの易しいエチュードを書く。実はこれを裏付ける作曲家がもう一人いる。ギターの作曲家フェルナンド・ソル(1778〜1839)である。スペインのバルセロナ生まれ、パリ、ロンドンで活躍した作曲家兼演奏家であり、ギター界のベートーベンと言われる。
 
 ハイドン、モーツァルトふうの明るい曲が多い。最近僕はこのソルにはまって、NAXOSでCDを買いあさっている。ソルは幅の広い作曲家で、ギター曲以外にも、ピアノ曲、オペラ、声楽曲、宗教曲などたくさん書いているが、自ら作品番号を付けたのはギター曲のみである。それだけギターに入れ込んでいたのだろう。このソルが最初に出版したエチュード作品6(12曲)、次に出した作品26(12曲)、超むずかしい。弾こうとしたが、指がつる。セーハ、ポジション移動が多いうえ、指間隔をめいっぱい広げなくてはならなかったりと、ハードなことこの上ない。こんなエチュード、弾けるやついるのかと思ったら、セゴビアがきれいに弾いていました。
 
 (あたりまえか)それで、やっぱりソル先生も反響がかんばしくなかったのか、あるいは出版社の意向もあったのか、もっと易しいエチュードをということで、その次に出した作品31、作品35。それでもまだ難しいということで最後に出したのが作品60。と、後になるほど簡単になっている。作品60の1番など単音でド−シソ・ドーシソ・ドレミソ・ファミレソ…とバカでも弾けますなどと書いてある(これはウソ、単に音がどこで生み出されるかを知るための実習です、と書いてある)僕もカルカッシを早く卒業してソルに行きたいのだが、まだ道のりは長いようです。

by mogurin





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■ 大きな勘違い


 ペインクリニックで私が教授で院長と信じていた先生は、なんと科長でした。名前も当然違っていました。ああ、なんという勘違いでしょう。でも、腕は確かにすばらしくいいのです。その先生に治療していただくと、他の先生にはないほど良く効きます。それで、教授だと思い込んでいたようでした。
でも、ずっと前ですが確か教授の診察日にその先生に診ていただいたことがあったと思うんです。代診だったのでしょうね。

 そういえば、医員<部長<科長<教授という構造になっているようで、考えてみると、ある診察方法でこの役職のある3人の方に同じことをしていただいたのですが、なし<左だけあり<両方あり、と三人の見解は違いました。もちろん、日によって私の体の状態が違うということもあるのでしょうが、やはり教授はベテランと言ったところでしょうか。

 科長や教授を知らないころは、部長先生がこの上なくすばらしく思えていました。もちろん、部長先生も相当腕がいいのです。初めて部長先生に処置をしていただいたときの感激はいまだに忘れられません。最近、部長先生に処置をしていただく機会がなぜかないので、残念に思っています。なぜなら、とてもお話がしやすいので、疑問に感じたことも聞けるし、なんとなく親しみを感じてしまうのです。前に街で会ったときに「よお!」と声を掛けられて、一瞬だれだかわからなかったこともあります。これは、役職のせいばかりでなくてその医師の性格もあると思うのですが、こういう先生が偉くなっても変わらずにいてくれるといいなあと思いました。

 また、最近は知らない先生におめにかかります。前は若くても名前がわかっている先生がいらっしゃったのですが、初めて会う先生に処置していただくときは、やはりどきどきしてしまいます。

 よく、「医者は患者を選べない」と言われますが、時として「患者も医師を選べない」ことがままあります。
 
 ある病院では、完全担当医制度を敷いていて、患者との相性が悪かろうが決して担当医を変えてはくれないそうです。入院患者などは、さらに看護師や看護体制も選べないということにもなります。居心地を悪くして、看護や医師の方で追い出したい患者が自主的に出て行くようにすることもあると聞いています。こういう病院には行きたくないですね。

今、通っている病院はどこも安定した関係をもって医師と接することができるので、安心していられます。私などは、3病院、4科に定期的に通っているので。よかった、よいお医者様と出会うことができて。


by MUSICA






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■ スキヤキ


 吉祥地のダイヤモンド街のいつも声をはりあげている安売り肉店で高い牛肉をたっぷり買う。それから、以前から思いを寄せていた男のアパートへ向かう。彼とはここ十年来の友人だ。

 ドアをノックすると、友人は案外すんなりと部屋に入れてくれた。調子にのった私は、スキヤキに要る材料の在庫チェックを始めた。
 「お砂糖ある?」とたずねると、
 「う〜ん。グラニュー糖なら・・・。」
 「じゃッ、グラニュー糖でいいかっ。」

 二人で野菜など足りないものを買い出した後にいよいよ調理だ。偏食のために料理のレパートリーが極端に少ない―一週間、毎日、酢豚ばかり作りつづけたこともあった。思った味が出せるまで作る―私だが、スキヤキには自信がある。 だが、食べてみるとマズイ。この最も純度の高い糖は、どうもスキヤキ向きではないようだ。

 その後、 「今夜は泊まってくね。」と、居座りを決め込んだ。
 その友人は現在、私の夫である。

キャサリン







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■ 連載 第54回 本当のADHDの仕様は見えない。見えるのは影響だけ


 これは前号の「ADHDであったとしても」の続編のようなもの。色々なADHDの人たちの話を聞いていると社会生活がやはり困難な要素がたくさんあるとは判る。しかし、社会生活にどれだけ経験があるかを考えたとき、ADHD以前の問題がたくさんある。
 
 誰でも目にする光景だが、タバコやガムの包み紙を全く意識することなく道路に捨てる、後を確認しないで急に立ち止まる、方向転換をする、スーパーのレジや切符販売機の前で小銭をまさぐる、スーパーで袋詰めをした後カゴを台に置きっぱなしにするなどなど、たいしたことではないけれどやはり迷惑なことをする人はかなりいる。どうも高齢者それも女性の高齢者に多いがそれは今の年輩の女性達が社会経験が少なく家で家事や子育てだけしかやってこなかったので、ルールが身に付いていないという事だろう。
 
 しかし、それらの年輩女性達も家事のベテランで誰にもまねの出来ない漬け物を漬けたり煮物の味付けをしたり手際よく家の掃除をしていたりする。つまり、経験が豊富な分野ではそれなりの気配りもできるのに、経験のない社会生活という分野で注意を払うという訓練が出来ていない結果だと思われる。悪意でやるのではなく、意識に上らないのだ。ただし、そう言う人は普通は身内に対してはそのような無神経な行為はしない。赤の他人に対しては気を遣わない事が問題なのだが。
 
 しかし、同じように周りに注意の行かない年輩男性も沢山居るし若い人間にも多くいる。若い場合はまだ社会経験に未熟ということだし、しっかりとしたルールを教えてくれる人がいないと言うことのようだ。結局、人間は学習により社会ルールを学び、社会に順応してゆく。いまそのシステムがうまく機能していないのではないかと思える現象が多々見られる。
 
 そんなわけで、社会生活がうまく行かないという原因に経験不足、ルールを身につけていない、しつけが悪いという理由が非常にたくさんあるような気がする。結局、社会の認識として、ルールを守れないのはしつけや教育が悪いからという事になってしまう。
 
 ところで、もちろん私たちはそれが全ての原因だとは思えないことを身にしみて知っている。集中すべき時に意識が集中出来ないという大きな問題が現実に存在するのだ。それをどのように説明しても理解を得られないもどかしさを経験している人は大勢居るだろう。なにしろ、ADHD自体は目に見えない。見えるのはそこから出てくる影響だけなのだから理解を得ようとしてもなかなか難しい。
 
 場合によっては言い訳と受け取られたりでますます事態が悪化したりする。残念ながら、周囲に理解を得ようとして事態が改善したという話はあまり聞かない。したがって、わたしはカミングアウトはよほど状況を考えない限りあまりするべきではないと思っている。
 
 もちろん、ADHD故の才能を発揮して圧倒的な存在になっているなら、そもそもそれがADHDであろうとしつけの悪さのためであろうと周囲は納得する。だから、その場合も別にカミングアウトの必要もないわけだ。
 
 ADHDやLDやASの問題は可能な限り社会に正しく認識してもらわなければならない。ただ、自分のカミングアウトとは別な問題だと考えるのだが、皆さんはどう思われるだろうか。


by ロクスケ


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○編集後記○

■ 今年も梅雨の季節です。空梅雨になるか本格的な梅雨になるかはまだ判りませんが、梅雨がいつまでも続くのはうんざりしますし、といって空梅雨だと水不足、農作物の不作などやはり大変です。ほどほどが良いとは思いますが、何しろお天気任せです。
 
 ■ 去年の夏は記録的な猛暑で多くの人達が体調を崩したようです。私は北国育ちなので暑いのよりは寒い方がまだ過ごしやすく、去年の夏は本当に応えましたが、それでもそれなりに準備をしていたので、例年のような夏ばては無かったような気がします。
 
 ■ 夏ばて防止はとにかく運動(軽い運動を夕方に)や散歩をして体を動かし食欲を落とさないように努めることと、冷たい物のとりすぎを避けることでしょうか。どうしてもさっぱりとした素麺や冷や麦などで済ませてしまい勝ちですし、冷たい飲み物のとりすぎでやはり食欲が落ちます。
 
 ■ 冷たい物の飲食は、直後は確かに涼しくなりますが、体の防衛本能で冷えた体を温めるために却って体温が上がり、火照ってきます。逆に、熱いお茶や味噌汁などをとると、その後は涼しく感ずる物です。冷たい物のとりすぎを避け、軽い運動をし、そして十分に必要なだけの睡眠をとることで、夏ばてもかなり軽減出来るのではないでしょうか。
 
 ■ おまけとして特別コールドドリンク。私もやはりそれでも冷たい物を呑むことはありますが、飲み過ぎないようにしているわけです。そんなとき、冷たい水コップ一杯に梅酢スプーン一杯を入れて飲むとスッキリして後味もよく、またかすかな塩分は汗で失いがちな塩分補給と、クエン酸で疲労も取れるようです。ちなみに梅酢は、私が自分で作っている梅漬けの物を使っていますが、梅干しを入れて砕いても良いでしょう。
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