1883 B・ファーナンがW・ミラーに挑戦


 NATIONAL LIBRARY OF NEW ZEALAND(ニュージーランド国立図書館)のPAPERSPAST(過去の新聞)というウェブ・サイト
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=p&p=home&e=-------10--1----0-all
(ちなみに表記を英語とマオリ語とで切り替えられます)で見つけた、古い新聞の記事をご紹介します。

FIELD SPORTS AND AQUATICS.  Auckland Star, 21 July 1883
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=AS18830721.2.25.19&e=-------10--1----0--
(真ん中ぐらい、上から5つ目と6つ目、及び、下から6つ目と4つ目の段落。)

 …
 W. Farnan has challenged Miller to a glove contest. Two-thirds of gate-money to winner, and one third the loser.
 Sullivan, the champion American bruiser, bathes in the sea and eats four sticks of celery per diem to keep his nerves in order.
 …

 (前略)
 W・ファーナンがミラーにグローブ競技で挑戦。入場料金の三分の二を勝者に、三分の一を敗者に。
 サリバン、米国人拳闘王者は、正気を保つために海水浴をし一日四本のセロリを食べる。
 (中略)

 Miller has stated that he made £540 out of the Foley affair and his Melbourne benefit ; that he considers Foley the best man that ever stood before him ; that he is willing to put £100 in a stake of £500, and back Larry against Mitchell, or any middleweight in the world ; and that to win from a man of Foley’s weight, good as he is, was no honour.
 …

 ミラー曰く彼はフォーリー戦と彼のメルボルンの儲けとから540ポンドを作ったと。彼はフォーリーをかつて彼の前に立った内で最高の男と考えている。彼は喜んで500ポンドの賞金の内から100ポンドをミッチェル、ないし任意の世界の中量級との試合でラリーに賭けたい。フォーリーの体重の男からの勝利は、良い事ではあるが、名誉ではなかった。
 (中略)

 The wrestling match between Professor Miller and E. Blackburn did not come off on June 30, owing to some hitch in the arrangements. The parties met at Hickin’s Hotel on June 29, but no agreement could be come to. Miller then offered to stake £100, and wrestle on June 30, as previously agreed, in the mixed style―that is catch-as-catch-can below the waist, with the use of the legs ; tripping allowed. To this the other side could not agree, but were willing to wrestle for £100 on the pure Cumberland style.
 …

 ミラー師範とE・ブラックバーンとの間のレスリング試合が6月30日に実現しなかったのは、取り決めにおける幾らかの障害のためであった。両陣営はヒッキンのホテルで6月29日に会合したが、契約に達し得なかった。ミラーがその時提案したのは賭け金100ポンド、6月30日に、先に合意したように、混合式でレスリング―それは腰より上を掴める様に掴め、脚の使用あり、つまづかせ許容。これに対して他方は同意できなかったものの、100ポンドを賭けて純粋なカンバーランド式でレスリングする事を望んだ。
 (後略)



 ミッチェルはチャーリー・ミッチェルと思われます。別ページ「「オタゴ・ウィットネス」より(1)クリストル大いに語る」、「1907.1 谷幸雄 対 C・ミッチェル」で少し書いています。



 当時、豪州ヘビー級王者を名乗る拳闘家が2人おりました。
 ニュー・サウス・ウェールズ植民地の王者、ラリー・フォーリー(シドニー在)と、ヴィクトリア植民地の王者、ウィリアム(ビル)・ファーナン(メルボルン在)です。

 万能の運動家、プロフェッサー・ウィリアム・ミラー(メルボルン在)は、フォーリーと1883年5月28日、シドニーでグローブ試合を闘って引き分けましたが、事実上は勝利したと見られていました。
 (詳しくは別ページ「1883.5.28 W・ミラー 対 L・フォーリー」に書きました。)


 もう1人の王者、ファーナンが、ミラーへの挑戦を表明します。
 しかしミラーは(上記のように)プロレスもやりながら、ボクシングにおいては当時の世界王者、ジョン・L・サリバン(米国)に照準を絞っていました。
 (詳しくは別ページ「1884〜1886 W・ミラー 対 J・L・サリバン」に書きました。)



 ファーナンはまずフォーリーの弟子、ピーター・ジャクソンと闘う事になります。



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