1911 「外人と柔道」(東京朝日新聞)

 

 

東京朝日新聞 明治44(1911)年5月31日朝刊

 

●外人と柔道

   柔道の復活

去る五月二十一日講道館の春季紅白勝負には殆んど三百人の競技者があつた此等の人達は一級初段二段三段の者ばかりで目下熱心に其技を練りつつある有望なる柔道家ばかりである此外にも白帯の無級朱帯の三級二級及び黒帯の高段者や此頃の勝負に資格はあつても出陣しなかつた者を加へ又國内海外に散在せる者も擧げたら夥しい數に達する事であらう柔道の本山下富坂の講道館の百有餘疊の道場の四囲の板壁は有象無象の柔道家の名札で貼り詰められて居る其の中には随分名を知られた人もある廣瀬中佐湯淺少佐若槻次官など一寸其の一例である此の如くに今日柔道は隆盛を極て居るが昔に溯れば頗る悲惨な状態にあつた事もある明治の初年には未だ封建の遺習去らず撃劍の侍の武術として尚ばれたが柔道は刀なき素町人の業として其名もやはらと云はれて蔑視まれたから中々に今日の隆盛は夢みる事も出來なかつた所が明治十七年三島通庸が警視総監となるや柔道を奨励する事甚だしく都下二十四警察に柔道の講習を開かせ又警視廳内の彌生神社の祭禮には全國の柔道家を呼び集めて競技大會を開催したこれを彌生祭と云ふのである此の警視廳の奨勵は柔道の廃れたと共に久しく糊口に窮せる柔道家に教師として食を與へ又優秀なる技術を秘めたる柔道家を都下に呼び集め遂に柔道今日の盛運を開いたものである

講道館柔道

やがて柔道は雨後の筍の如くに芽を出して來たが又考へて見れば愚にもつかぬ柔術が多い何流彼流~傳鬼傳と名前こそは嚴めしいがさて實用に適するものはと云へば某家秘傳とあつて錦の巻物で子々孫々に傳へて世々に變らぬ事であるから靴を穿き洋服を着だした今の世にはとても應用出来兼(かね)る此間に明治十五年頃より始まつた文學士嘉納治五郎の柔道は目を惹いた氏は時分の金を投じて講道館を作り習ふ人には稽古衣まで貸し與へて奨勵したそして又従來の柔道の精華を抜き天~眞揚流に起倒流を加へて工夫を凝し講道館柔道なるものを組み立てた柔道とは講道館柔道の略称で嘉納氏の作つた新語である従來の柔術とは自から面目を一新して居る明治の教育を受けた嘉納氏の工夫になるから萬事生理的に物理的につまり科學的に出來て居る又繁雑なる型は少くて實用を旨としてる加ふるに氏は自家の金を以て奨勵し且又嘉納氏が一度高師の校長となるや忽ち柔道は校内に傳播せられ生徒の赴任する海内の中學師範に分布せられ遂に柔道即ち講道館柔道の隆盛を見るに至つたのである

海外遠征

併し困つた者は従來の柔術屋である東京は勿論講道館の本山がある事だから申すに及ばぬが地方でも今迄の道場は中學師範の稽古が始まると共に門人は著るしく減少する遂に如何ともする事能はざるに至つた茲に於てか窮すれば智慧の出るもの彼等古い柔術家は踵を接して海外に遠征し出した正しく云へば國内の講道館柔道の壓迫に耐へ兼て海外に逃れたのである、だから外人は『じゆうどう』と云ても何の事やら解し兼るが『じゆじつ』の名を以て廣く知つて居るのは此邊の消息を明かにするに十分である彼等柔術家は外國に在つて如何にして國技柔道を紹介するかと云ふに先づ邊鄙の劇場を借り此處に於て興行をするのである同伴して渡海した者と申合せて投げ合ひ捻ぢ合ひをやるのが普通である或は又手品に類した棒抜きとか疊潜り等をやる此の一例として引いた棒抜きとはどんなものかと云ふに先づ稽古着をつけた本尊の柔術家先生仰向に臥し咽喉の上に長さ一間ばかりの圓い棒を乗せその兩端を強力な人で押へ付けて居るさうして兩手を二人で押へ兩足を二人で捕へ胸の上には二三人も乗せて居るさあいいかいいと答ふる一定の合圖諸共其柔術家は一聲高く氣合ひを叫んで身體を左右に振つて胸の上の人を振り落とし手足を取り押ふる人を跳ね飛ばし愈最後に顔を横にして棒の僅に撓つてる隙から頭を抜き出すのであるあまり棒が強くて撓りが少いと耳などを擦り落し釜をかぶつて踊つた徒然草の坊主が第二世を習ふ様になる事がある其の後さあ希望の方はやつて御覧と定め込むのであるが何此式と身を踊らせて應ずる者はあつても唯の鍛練の積まぬ外人なれば棒で喉を押へられただけでも息も絶え入るばかりで痩我慢の出來るものはない其の後二三番の投げ合ひを見すればジヤパンジユジツの名聲は忽ち旭日の上るが如く高まるのである

 

 

 「棒抜き」の実例があります。「手品に類した」と言っていますが、こつこそあれ種のあるものではないでしょう。

 

1901.9 バーティツの演武

http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW130521/

 

 

 

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