旧制宇治山田中学校から歩いて5〜6分の所に河崎と言う町があります。


ここ河崎
は、今から400〜500年前,瀬田川を利用し,町の周囲に濠を巡らせた環濠集落の商人の町として始まったと言われています。

内宮、外宮のある伊勢には、年間650万人がお伊勢参りに訪れていました。
勢田川の水運を利用して江戸時代には問屋街として発展し、参宮客で賑わう伊勢に大量の生活物資を供給する台所だったと言う事です。

そして河崎は、日本で初の紙幣「山田羽書」発祥の地であり,江戸時代に様々に発行された藩札の起源となったと言う事です。

現在はこの町並みの保存と観光に力を入れている様ですが、旧制山田中学校とはそんな町のお膝元だったのです。
この河崎に流れる勢田川の河畔に宇治山田中学は短艇部の艇庫がありました。
「神路」 「高倉」 「朝熊」、と三艇のボートがありました。
当時、小津さんは柔道部ら所属していたのですが、日記には好きな野球と共にボートで遊んだ記録が残されています。

大正7年 5月5日(日)日記より

「十九の舎生と星野と短艇に乗り二見さして出発 大湊に上陸した。短艇中で弁当を開く。
餅を買ふ。小学校に行く。女教師が居った。海波大いに高し。」



大正7年 5月26日(日)日記より

「協議一決短艇に行く。大湊で選手が練習した。私等は川口で稽古して沖に出た。水が引いてゐておしたことが数度、大いに腹へる 六十銭で青、堤、片山と餅を買ひに行く。」


大正7年6月18日(火)日記より

「放課後小藪、南、海住、梅林、小津、稲垣と短艇に行って神路に以上と井坂、岩下、岩尾のり二見の方に行く。大湊で休んだ水をのむ。土産にもちをかう。」


このボート遊びの記憶は後に「父ありき」「早春」で具現化されています。

特に「父ありき」では小津が宇治山田時代の修学旅行先で起こったある事件がストーリーの重要なポイントになっています。

小津さんの中学時代の友人、置塩 高が手記を残しています。

「大正8年5月、われ等三重県立第四中学校四年生は修学旅行に旅立ったが、まず吉野へ登って竹林院で一泊し、次の日大阪へ出て道頓堀畔の宿に夕方着いた。夕食後街へ出た吉田 与蔵 井坂 栄一 岩下 為次郎の三人は、道頓堀川の貸ボートにのって夜の川を楽しんだ。それまではよかったが、戎橋の下へ来た時、先方より荷舟が追ってきた。驚いた三人はいっせいに橋脚につかまったので、ボートは片方に傾いてそのまま転覆してしまい、川に投げ出された。しかし、三人とも直ちに岸へ泳ぎついて助かった。・・・・・・・・この一件に就て一番弱ったのは引率の小田 末男先生であったが、堅く他言を禁じたので、後日さして校内の問題にはならなかった。
もし、溺死でもしていたら、大変なことになっていただろう。」

「父ありき」の中で溺死した生徒の名は吉田でした。
小津さんの晩年まで交流のあった実際に道頓堀でボートに乗っていた吉田与蔵と同じ名前です。

「父ありき」が封切られた時、吉田与蔵は家族に「小津はひどい奴だ、おれを殺しやがった」と言ったと言います。



また、「早春」では瀬田川を行く京大のボートを見て、笠に「あの時分が人生の春だねぇ」と言わせます。

宇治山田中学時代にこの河崎界隈で遊んだ小津さんの記憶は生涯を通して輝き続けていたのでしょう。

しかし、唐突に出てくるこのボートのシーンですが、このボートのシーンを撮りたいが為に瀬田川を選んだのではないかと管理人は考えています。

だって、この伊勢も勢田川ですもん、字は違うけど・・・・・・・。

管理人にはとても偶然とは思えません。






左の写真は小津さんの伝記映画「生きてはみたけれど」に登場する宇治山田中学時代の旧友が河崎の町を歩くシーンに登場する橋の様にも思えますがどうでしょか。