Robert van Gulik (高羅佩)   back to top page     back to Chinese Literature (previous page)
(1) His Life and Works
   とりあえず、Jan Willem van de Wetering, Robert van Gulik. His life, his work, 1987 を参照。
   以下の年表は、主としてこれによる。

   1910 オランダのZutphenに生まれる。
   1913 父親の仕事(オランダ領インドネシア軍医)の関係でインドネシアに移住
       (Surabaya,Bataviaに住む)。この間に中国語、マレイ語、日本語を勉強
   1922 オランダに戻り、高校(gymnasium)に入学.。フランス語、ドイツ語、英語、ギリシ
       ャ・ラテン語を習得。ロシア語も個人教授から教わる。中国語の勉強も中国人留
       学生から習い続ける。
   1928  Leyden 大学・東洋語学科に入学
   1934  修士号取得
   1935 Utrecht大学でPh.D
        オランダ外務省に入省。東京に赴任
   1942 日蘭戦争のために、オランダ外交団は中国・重慶(Chungking)移転
   1943  一等書記官に昇任。重慶で中国人女性 水永芳と結婚
   1946  オランダに帰国。Whashington、DCに赴任。
   1949  東京に戻る
        このころ、「狄公案」(狄仁傑の事件簿)を英訳する。
        Dee Gong An. An Ancient Chinese Detective Story
        The Chinese Bell Murders(1950)
        The Chinese Maze Murders (1950)
     
   1953  New Dehli, KUala Lumpur, Lebanonに赴任
        The Chinese Nail Murders
        T'ang Yin Pi Shih (棠陰比事)
   1959  Kuala Lumpurに赴任。駐マレイシア大使。
   1965  駐日オランダ大使
   1967  死去。直前に最後の本、The Gibbon in Chinaを執筆
   
(2)Judge Dee Series
 * このシリーズについては、和訳もあり、インターネット上の各所で紹介がされているので、知る人ぞ知るシリーズとなっている。「狄仁傑」で調べればいろいろな情報が得られる。また、中国語が読める人は、簡体字で「狄仁杰」(Di Renjie)として中国のヤフーなどで調べれば、中国における情報が得られる。Van Gulikの推理小説の中国語訳もある。Van Gulik の推理小説を映画化したものではないが、狄仁杰のDVDもあるので(『武朝迷案』など)、van Gulikの描く狄仁杰と比較すると面白い。
 Van Gulikの小説を読むと、唐時代の取り調べが民衆の傍聴を許す公開の法廷で行われていること、証拠調べなどが必ず開廷の上行われていることなど、適正手続き(due process)で行われていることに驚くが、中国のDVDを見るとかなり違った印象を受ける。とはいえ、唐律などに規定されているように、裁判官が恣意的な行為をしないように手続きが厳格に決められていたことは事実のようであり、法に対する考え方という観点から興味深い。

 * Van Gulikは、もともと清代に書かれた「狄公案」(作者は不明)を英訳し、これがきっかけになって、自らのJudge Dee Seriesを執筆した。その「狄公案」がどのようなものであったかは、あいにく英訳も中国語の原本も未見であるが、中国のインターネット上に、それらしきものがある。一応、これを「狄公案」として扱うことにしたい。

 狄仁傑(Di Renjie,狄仁杰)の略歴 
 
 主人公の狄仁傑(Di Renjie)は、実在の人物である。『資治通鑑』(続国訳漢文大成)(加藤繁・公田漣太郎訳)および『唐書』・115巻(列伝)などによる。

     
                                  624年 武照后生れる
 630年 唐の貞観4年、太原に生まれる。          
 663年 蓬莱県の県令                 655年 武照が皇后となる
 
666年 漢源の県令                     633年 白村江の戦い
 668年 蒲陽の県令
 670年 蘭房の県令
 676年 北州で県令。その後、中央に呼び戻されて、
     大理寺丞となる。大理寺は、刑部とともに
     司法を扱う役所。その後侍御史となる。
 679年 大理寺卿(長官)となる。              683年 高宗崩御
 686年 寧州の刺史。そこでの評判がよく、冬官(工部)
      侍郎として中央に戻される。
 687年 琅邪王沖、豫州で越王李貞の反乱。文昌左丞
   であった狄仁傑が、豫州の刺史として派遣される。
   越王の反乱は鎮圧されたが、節度士張光輔が略奪・
   虐殺するのに反対する。「河南を乱す者は、越王貞1人
   なのに、今のやり方は、貞1人死んで、1万の貞を生ん
   でいる」と批判した。張光輔から恨まれる。その恨みから、
   武則天に誣告され、復州刺史へ左遷される
                                   690年 天授元年国号を周
 691年 洛州司馬であった狄仁傑が地官侍郎(戸部侍郎)となる。
    中書省、門下省平章事。(平章事は、皇帝を補佐し
    て政務を司る宰相である)
 692年 狄仁傑ほか6人が謀反を図ったとして来俊臣に
   よって告発
される。死刑は免れるが彭澤令に左遷。
  
冀州・魏州の刺史、その他の地方官を務める。
 697年 幽州都督であった狄仁傑を鸞台侍郎(門下省・次
  官)、同平章事に戻
す。
 (再び宰相)

 700年 死去(71才)。文昌右相を贈られる。     
                              705年 神龍元年
 張柬之が張
                                 易之、昌宗兄弟を誅殺。国号を復唐(
                                 資治通鑑207巻) 12月「則天崩於
                     上陽年八十二遺制去帝號稱則天
                     大聖皇后」
(資治通鑑208巻)

 唐初期の官制(三省・六部)
  中書省(長官は中書令=内史) 皇帝の勅・制を起草。 武則天の時代に鳳閣と改名
  門下省(長官は侍中=納言、次官は侍郎) 勅・制をチェック。  武則天の時代に鸞台と改名 
  尚書省(長官は尚書令、皇帝が兼ねる。次官は僕射)各部を束ねる。武則天が文昌台と改名
         吏部(武則天の時代に、天官と改名)
         戸部(地官)
         礼部(春官)
         兵部(夏官)
         刑部(秋官)
         工部(冬官)
 The Chinese Gold Murders, Perennial, Harper Collins
 シリーズの中で最初に読むには、本書がよい。
 本書の事件は、663年に狄仁傑が蓬莱県の県令に任命されたときのことである。唐の高宗(649-683)の時代である。その数年前の660年には唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼした。朝鮮半島における利益を守ろうとした日本(倭)は、唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、壊滅する(663年)。この話の中に出てくる朝鮮出身の女性(玉珠 原書ではYu-sooと表記)は、唐によって蓬莱に連れてこられた女性である。
 蓬莱の前知事(王)が殺害されたところから始まる。その後任として、狄仁傑が新しい任地に赴く。その途中で、一行は山賊に襲われる。狄仁傑と昔から彼に仕えるHoong Liang(洪亮)の応戦で相手は逃げていく。しかし、この2人の山賊は、実は訳あって中央権力に反抗して山賊となったのであって、根っからの悪者というわけではなかった。そこで一旦狄仁傑に屈服すると、かえって彼を敬服するようになり、2人の山賊は、以後狄仁傑の手足となって働くようになる。これがMa Joong(馬栄)とChiaoTai(喬太)である(漢字名は、中国語の「狄公案」による。van Gulikの中国訳では喬太ではなく、喬泰という表記をするものもある。)。この2人は、狄仁傑の他の事件簿においても必ず出てくる。前任の王県令は、庁内の自分の仕事部屋で毒入りのお茶を飲んで死亡した。毒が茶壺(急須)の中に入っていたことまでは死後直後の検死官の調査で分かっている。しかし、どうやって毒がはいったのかは不明であった。それに部屋には鍵がかかっていた。狄仁傑は死亡現場をくまなく調査する。床のシミなどから、狄仁傑は、次のように推理する。王県令は、沸いたお湯を茶壺に入れ、茶碗についだ。それを飲んだ時に毒で、床に倒れた。更に、狄仁傑は、王県令の人となりを知ろうとして、彼の蔵書や書き物を調べる。王県令は詩が好きであった。いろいろな女性に送った詩も出てきた。また、彼は、仏教や道教に興味を持っていた。他方で、行政や歴史などについては関心が薄かった。出世など望まず、地方の県令として自分の生活を楽しむ。そういう人物像が浮かんできた。しかし、そんな人間にはふさわしくない一冊の書き物があった。それには、王県令の自筆で日付と物品のリスト、そして数字が記載されていた。なぜだろう。全てがなぞだった。
 そこへもう1つの事件が起きる。狄仁傑が農民間の境界をめぐる争いを法廷で処理していると、そこへ突然、顧孟平(原書の記載はKoo Mengpin)と名乗る者が、自分の妻が行方不明になったので、調べてほしいと訴え出る(公開の法廷を開いていると、誰でもこのように訴え出ることができるのか?)。結婚式は10日前に行われ、式から3日目に慣習に従い、妻は実家を訪問した。妻は、一昨日戻るはずであった。しかし、昨日になっても戻らず、実家に問い合わせると、予定通り一昨日実家を出ていた。妻は馬に乗って帰り、弟が城門まで付き添うことになっていた。しかし、途中で弟は、樹木の梢に見つけた鳥の卵を取るために木に登ろうとして足をくじいた。その間に、姉は、城門に向かう道を一人で先にいった。弟は、急いで姉を追わなくても大丈夫だと思って足の治療をしていた。しかし、顧孟平の妻はそのまま行方不明になってしまった。そこで、その調査を願い出たのであった。狄仁傑は調査をすることを決定して、閉廷した。
 こうして幾つかの事件が、一見関連なさそうに進行する。また、前県令の亡霊のようなものが現れたり、超自然的現象も発生する。しかし、狄仁傑の推理と2人の部下の活躍で、謎は1つ、1つ解明され、当初は関連のなかった幾つかの事件がやがて1つに収斂していく。(以下略)・・・ ・・・
     
 英語の文章は、多少ぎこちない表現もあるが(本書の日本語訳は読んだことがないのでしらないが)、話の展開は面白く、十分に楽しめる。オランダ人の英語なので、英語自体も平易である。本小説は、推理小説としての面白さのほかに、いろいろと中国のことがわかって面白い。たとえば、狄仁傑(当時の知識人)が仏教についてどう考えていたかもわかる(仏教に対しては好意的ではない)。また、すでに述べたことだが、中国の裁判制度や法制度をかいま見ることができるので、特に法学部の学生にはおすすめだ。但し、これはあくまで小説であり、それも西洋人の目を通して書かれた中国であるから、現実の中国の法制度と誤解しないように注意する必要がある。時代考証には注意。(なお、私は、中国法制史は素人である)。ーー>中国の歴史的裁判制度などについて専門的に勉強したい人は、滋賀秀三『清代中国の法と裁判』、『中国法制史論集 法典と刑罰』などを参照されたい。
 なお、本書には、van Gulik自身による挿絵があり、楽しめる。法廷の場面の挿絵では、当時の高官の装束が描かれていたりする(正確かどうかは知らない)。また、彼が描く女性は色っぽい。

The Chinese Gold Murders (黄金案)
 蓬莱県の県令に赴任するため都を離れる狄仁傑を友人の侯鈞と梁体仁が長安郊外の「悲歓亭」で見送る。これも狄仁傑の初期の事件簿(公案)。従って、武后との関係などは出てこない。Van Gulik のJudge Dee Seriesはほとんどが初期の事件簿であり、かつ、一般的な刑事事件の解決手腕が見どころなので、あまり政治的な話はでてこなかたと思う。今、昔読んだときのことを思い出して書いているので、記憶に頼っているが(2021)。



Five Auspicious Clouds
The Red tape Murder
He Came with the Rain
The Lacquer Screen *
The Chinese Lake Murders *

The Morning of the Monkey
(The Monkey and the Tiger)
The Haunted Monastry
The Murder on the lotus Pond
The Chinese Bell Murders) *

The Two Beggers
The Wrong Sword
The Red Pavillion *
The Emperor's Pearl *
The Chinese Maze Murders *
The Phantom of the Temple
The Coffins of the Emperor
The Murder on New Year's Eve

The Chinese Nail Murders *
The Night of the Tiger
The Willow Pattern *
Murder in Canton

Poets and Murder, Chicago Univ. Press, *