時代は江戸中期。場所は肥後の国、熊本……。
旅姿の若侍と白髪頭の老人が熊本の町に入ったのは、昼を過ぎた頃だった。もう秋だというのに残暑が厳しい。額を伝う汗を拭いながら、若侍が見上げた先には、名将、加藤清正が築城した勇壮な熊本城の天守閣が青い空に聳えていた。
「先生、私の腕がどこまで通用するでしょうか」
若侍が傍らの老人に尋ねた。
「心配いらん。お前なら天魔モノノ怪の類いでも素っ首落とせるよ。まして、人の技などは恐れるに足らん」
好々爺の風貌をした老人が、にこやかに物騒な物言いをしたのを、すれ違いざまに耳にした若い女が、ぎょっとした顔で振り返り、慌てて足早に去っていった。
「先生……」
「お〜、そうじゃった。ここは敵地じゃからな。迂闊なことはしゃべらぬが得だな」
若侍が少し冷ややかな視線を向けたので、老人は首をすくめて苦笑した。
熊本城下は賑わっていた。祭りのように出店も並んでいる。
年に一度開かれる恒例の剣術試合が、その年も熊本城内で開催される。
肥後熊本、八代、人吉、宇土、菊地、天草から選りすぐりの剣術達者が選抜されて勝ち抜き戦を競うのだ。
元来、肥後熊本は武芸の盛んな土地柄だった。
宮本武蔵が伝えた二天一流、松山主水が伝えた二階堂流、井鳥景雲が伝えた雲弘流の他にも、四天流、伯耆流、関口流、柳生新陰流、疋田陰流、寺見流といった流派が明治以降も伝えられている。
現代でも、柔道、剣道、空手道、合気道といった武道で多くの名人を輩出し、武道王国として有名だった。
熊本城内の御前試合は武芸の奨励と土地柄の気風から自然に始まったものである。が、太平の時代の腕比べ、早い話が退屈しのぎの娯楽だった。
既に戦乱の時代は遠く、剣術の業前などは実利的な意味はない。
けれども、だからこそ、武芸が逆に注目を浴びる。人間は意味のないものに意味を見いだす習性がある生き物なのだ。
優勝の本命は、二天一流の寺尾惣右衛門。宮本武蔵から二天一流の極意相伝を得た寺尾求馬介から三代目に当たる。ここ二年続けての優勝者で、宮本武蔵の再来とまで言われる剛の者で、まだ二十代半ばだが師範代をつとめている。性質も素朴で誠実、武士の鑑と称賛され、つい半年前には家中随一の美人と評判の、国家老、松井家の親戚筋の娘を妻にしていた。
この寺尾に匹敵する実力者と下馬評が高かったのが、今回、初めて参加を許された二階堂流の鵜ノ首陣内である。
しかし、陣内の評判は悪かった。腕前ではなく人柄の方が……。
この男は浪人から仕官した男だったが、失伝して久しかった松山主水以来の二階堂流を再興したと自称して参戦。出自が怪しいことから選抜から落とされていたのだが、予選の試合当日に現れて強引に挑み、その無礼な振る舞いに怒り、試合に応じた剣士二人を続けざまに打ち倒してしまった。
打ち倒された二人はいずれも熊本城下の名門道場で竜虎と言われるほどの者だったから、始末が悪い。
普通は、こんな無礼な人間が参加を許される道理はないのだが、熊本の南に位置する八代藩主のお声掛かりもあって無下に断ることもできず、また、実力があることから特例で参加を許された。
その、鵜ノ首陣内の試合と言えば、これもまた異様なものだった。
木剣を相手の眉間にピタリと狙い付けて、エイッと気合をかけるや相手を不動金縛りにしてしまう。そうしておいて、打ちのめし蹴り倒すのである。
何しろ、相手は術を受けてピクリとも動けないのだから、されるがまま。試合というより相手を嬲っているようにしか見えない。
松山主水一代限りで失伝したと言われていた不動金縛りの心術、心の一方、別名、居すくみの術を再現したと主張していたが、その胡散臭い戦い方には、審判役の各流派の師範たちはしかめっ面をしていた。
「あのような邪剣を駆使する者は、寺尾の敵ではなかろう」と、内心の不安を打ち消すかのように、各流派の師範たちは口々に論じていた。
それでも、怪しい術を恐れた剣士たちは「あいつは剣士ではなく、忍術者ではないか。もしかすると幕府の隠密かもしれないぞ」と噂し、恐れおののいていた。
「今年は寺尾も危ないかもしれん」と言う剣士もいたが、少なくとも誰もが二人の優勝争いになると予想して疑っていなかった……。
老人と若侍は、この御前試合に初めて参加するために熊本にやってきたタイ捨流宗家とその高弟で、名を小田夕柳軒と夏目又十郎といった。
師弟は城の近くの旅館を宿にした。
旅館の女将が二人をじっと見つめた。好々爺然とした夕柳軒に愛想笑いを見せ、続いて笠を外した又十郎を見た。
と、中年の女将が少女のような顔で頬を染め、恥ずかしそうに視線を伏せた。
又十郎が女かと見まがうばかりの美青年だったからである。
「あの……お客さんたちも明日のお城の試合を見物においでなさったのかね」
女将がうつむいたまま質問すると、夕柳軒がニヤッとして答えた。
「いや、わしの一番弟子が試合に出るのでな。わしは付き添いだよ」
「へえ〜、お侍さんが試合に出なさるのかね。でも……怪我でもしなさったら大変だから、やめておいた方が……」
女将が真剣な顔で言う。本気で心配している様子だった。
「な〜に、心配はいらん。この男は見かけと違って勝負となると人が変わるからな」
夕柳軒は、そう言うと自慢げに高笑いし、又十郎はまた困惑した顔で師匠を見た。
部屋で荷物を置き、出された茶を飲んでしばらくくつろいでいると、又十郎が夕柳軒に言った。
「先生、まだ日も高いので、私は少し町を見物してまいります」
「又十郎。明日は試合じゃからな。早く帰れよ」
夕柳軒は寝転がったまま、煎餅を齧り、弟子を見ようともせずにそれだけ言った。
又十郎がぶらぶらと町を歩いていると、川のせせらぎに混じって、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
どうも、川の中から聞こえる。
慌てて、川に近づいていくと、板切れが流れていき、その上に何か乗っていた。
「これはいかん!」
赤ん坊が捨てられて流されているのだと思った又十郎は、ざっと駆け出して流れていく板切れを追った。
いつの間にか太陽が傾き、西日の赤い光が逆光になって流れていく板切れの上のものを黒く影のように見せた。
暗くなったら見失ってしまう。迷っているヒマはないと考えた又十郎は、走りながら大小の刀を抜き取り、川岸に置くと、着物を脱いで褌一つになって川に飛び込んだ。
深くはないが流れは結構早い。本来なら、勝手の分からぬ川に入るべきではない。水面はまっすぐな流れでも、足掻いても反発の無い縦の渦などが隠れているかもしれない。水の冷たさに体が動かなくなるかもしれない。しかも、流れの先には背丈くらいの小さな滝がある。足掻くことさえ知らぬ赤ん坊が落ちたらどうなるだろうか。
又十郎は懸命に波をかき分け、板切れに向かって泳ぎ、滝の手前で板切れを掴んで、横泳ぎで元の岸までなんとか戻った。
又十郎が川から引き上げた板の上、赤ん坊と思っていた影は小さな猫だった。
真っ白い毛で、尻尾が長い。ズブ濡れの子猫はクリクリした目で又十郎をじっと見つめていた。
よく見ると、この子猫の両目は左右が赤と青の別々の色をしていて、微かになった夕日を集めて、暗がりの中でもキラキラと輝いていた。心奪われる宝石の美しさとは、こういうものか。
「や〜、何と綺麗な……」
又十郎が感嘆を漏らすと、子猫は人間の言葉が解るように恥ずかしそうに顔をすくめて、一声、ミャア〜と鳴いた。そして、ピョンと板から飛び降りると、感謝するように又十郎を何度も何度も振り返りながら草むらに消えていった。
しかし、なぜ猫が水の上の板などに乗っていたのか。誰かのいたずらであろうか。天下太平を面白く思わぬ食い詰め武士などが、意味もなく獣をいたぶることがあるそうだが、こんな手の込んだことをするだろうか。解せぬ。
ズブ濡れで旅館に帰った又十郎を見て、夕柳軒は笑った。猫を赤ん坊と勘違いして川に飛び込んだという話を聞くと、もっと笑った。
「わしはまた、河童と角力でもとったのかと思ったぞ」
夕柳軒が笑いながら言うと、又十郎は照れ笑いをしてみせた。
「まあ、いい。明日の試合は朝早いそうだ。今日は風呂に入って早く寝ろ」
翌朝、二人は熊本城内の試合会場に入った。
試合の組み合わせはクジで決まる。次々に出場者がクジを引いていく。その多くの者が鵜ノ首陣内の噂を知っていて、陣内とだけは当たらないようにと願っていた。
あの魔法のような心の一方を食らえば、今まで鍛えてきた剣の腕を揮うこともできずに多くの観衆の前で無残に打ちのめされてしまう。
そうなったら剣士としては終わりだ。いや、それどころか道場の看板にも泥を塗ることになりかねない。師や兄弟弟子たちに申し訳がなくなるのだから……。
クジ引きで試合の組み合わせが決まった。
誰もが尻込みした鵜ノ首陣内の初戦の相手は、誰か……。
「第四試合は、二階堂流、鵜ノ首陣内殿、タイ捨流、夏目又十郎殿」
呼び出されて、又十郎が立った。
周囲の者の視線が又十郎に集まる。その視線には哀れみの色があった。「あの若者では怪剣士のエジキになるだけだ」と、誰もが思ったに違いない。
タイ捨流は、剣聖、上泉伊勢守の高弟、丸目蔵人佐によって創始され、人吉の相良家に伝えられた。丸目は、師匠である上泉の正統新陰流の印可を柳生石舟斎宗厳が継いだために、自らの流儀名をタイ捨流と改めた。上泉門下の第一の実力者は自分だという自負心があった故に、心の傷が大きかったと思われる。
丸目の柳生への対抗心は強かったと思われ、タイ捨流は新陰流とは違って実戦的な荒々しい戦場剣法へと先祖帰りした印象がある。
又十郎の武人らしからぬ風貌と若さに、「これは鵜ノ首の圧勝だろう」と誰もが思っていた。ただ一人、小田夕柳軒のみがニヤニヤと腕組みして見ている。
「ふふふ……“心の一方”か。が、我らには秘策あり!」
夕柳軒が余裕の笑みで呟いた。
「両者、前へ」
主審が促し、又十郎と陣内は木剣を持って対峙した。
しばし見合って、陣内が木剣の切っ先を又十郎の眉間に付けた……。
エイッという気合が響く。陣内が自信満々で二階堂流の秘術“心の一方”を仕掛けていた。
又十郎はピクリとも動かない。
(よし、この女みたいな小僧のツラをぶっ潰してくれる)
嗜虐心をたぎらせ、又十郎が不動金縛りの術にかかったと思った陣内が打ちかかる。
が、次の瞬間、カランッと、乾いた音をたてて陣内の木剣が落ちた。
ギョッとした陣内が又十郎の顔を見ると、何と、又十郎は両の眼を閉じたままでいた。
(しまった! この小僧、心の一方が相手の目に心気を注いで脳髄を痺れさせる術なのに気づきおったのか……)
そう悟った瞬間、放心状態になった陣内を、又十郎の両眼がゆっくりと開いて見た。
ぞっとするような冷たい殺気が、針で心臓を刺すように感じられ、鵜ノ首陣内が小刻みに震えていた。
はた目にも鵜ノ首陣内がおびえているのが判り、ようやく、又十郎が並の剣士でないことに誰もが気づいた。
「勝負あり! 勝者、夏目又十郎!」
主審の声が必要以上に大きく響いた。怪剣士の暗躍を、この無名の若者が阻止してくれたことに、内心、小躍りしている風だった。彼もまた城下に道場を開いている。陣内に打ち倒された二人の剣士は彼の愛弟子であり、他流の者でも誰でもいいから、この傍若無人な邪剣の遣い手を打ち据えて欲しいと願っていたのである。
取り落とした木剣を拾い、打たれた小手をさすりながら陣内が退場していくと、見物客や控えの剣士たちも一斉に歓声をあげた。
夏目又十郎は、その後も対戦相手を次々に打ち破っていった……。
又十郎は危なげなく決勝に進み、下馬評通りの実力者、寺尾惣右衛門と対峙した。
「それでは、本日最後の試合をおこなう。二天一流、寺尾惣右衛門殿。タイ捨流、夏目又十郎殿。前へ……」
主審が呼ばわり、寺尾と又十郎は試合会場へ出て、対峙した。
寺尾が遣う二天一流には、本来、五行の太刀と呼ばれる五つの構えしかない。
武芸の考えには、千変万化する勝負に対応するのに数多くの技をもって当たる方法と、ごく少ない技で当たる方法の二つがあるが、宮本武蔵は、自身の経験上、数少ない技を磨き抜いて、敵の先を抑えて制圧する方法を選んだと言える。
寺尾惣右衛門は、晩年の武蔵の思考と絶技を体現した名手だった。
大小二刀を水平に翼のように広げて構える水形の構えをとる寺尾に対して、又十郎は右手に持った木剣を自然に垂らしたまま、やや顔を俯かせ、じっと立ち尽くす。
寺尾が構えを次々に変えて誘うが、又十郎は動かない。眠ったように半眼にした視線からは心が読めない。じれた寺尾が二天一流独自のズウー……ッと、低く長く延ばす気合をかけながらじわりと間合を縮めていく。
しかし、又十郎は動かない。
寺尾が撃尺の間合に入ると同時に、ターンッと鋭い気合を発して左の小刀で下段からの切り上げを防御するように備えたまま、右の大刀を又十郎のこめかみめがけて打ち込んでいった……。
が、そのまま寺尾がバッタリと倒れ、又十郎は立ち位置を変えて片手切り上げの体勢で木剣を振り上げたままで佇立していた。
いつの間に持ち替えたのか、木剣を逆手に握っている。
どうやって打ったのかは誰も判らないのだが、恐らく、寺尾の打ち込む刹那に体捌きしながら、木剣を持ち替えて大小二刀の隙間を縫うように胴払い打ちにしてのけたのだと思われた。
木剣を逆手に持ち替える動きが、そのまま寺尾の小刀が抑えてくる軌道から外れて抜けていたのである。
「勝負あり! 勝者、タイ捨流、夏目又十郎!」
主審の声に、また観衆の歓声が湧き上がった。
又十郎に、主催者であり武芸好きの肥後藩主、細川公から直々に声がかかった。
「夏目又十郎。見事であった。最後の決まり手は何と申す技か?」
「はっ、最後の技は我がタイ捨流の居合の技、逆握を応用したものにございます。逆手で抜き斬るクセ技にござれば、寺尾先生に及ばずと考えて咄嗟に用いたもので、マグレ当たりにございます……」
破った寺尾の面子が立つような言い方をしたが、それは又十郎の正直な感想だった。邪剣を操る鵜ノ首陣内と違って、寺尾惣右衛門の二刀の技は本物だった。マグレで勝ったと言ったのは本心からそう思ったからである。
しかし、藩主はそんなことはどうでもいいと思っていた。又十郎の電光石火の技の秘密が知りたくてたまらない。
「ほう、逆手抜きの居合術とは珍しいものよ。タイ捨流は丸目蔵人佐が創始したと聞くが、丸目は新陰流兵法を創始した上泉伊勢守の高弟であろう? わしも新陰流を学んでおるが、そのような技が伝わっていたとは知らなかった」
又十郎の後ろの観客席に控えていた夕柳軒が口を挟んだ。
「はっ、恐れながら……、我が流儀の二代、伝林坊頼慶は唐の武芸を極めた帰化人であったそうで、当流には他流とは変わった技が多く伝えられておりまする」
「そうか、唐の武芸が入っておるのか……。むっ、御老人は何者か?」
藩主がいぶかしそうに聞くと、又十郎が「手前の剣の師にございます」と、答えた。
夕柳軒は鼻の穴を膨らませて自分が優勝したように得意げな顔をし、藩主の言葉を期待して待った。
が、藩主はフゥ〜ンと白けた顔をして視線を外してしまった。