九戸政実(くのへ・まさざね) 1536?〜1591

陸奥国南部氏の一族。九戸南部氏。九戸信仲の子。通称は五郎か。左近将監。陸奥国九戸城主。
九戸氏は南部氏祖・南部光行の五男である行連が陸奥国糠部郡九戸に入部し、地名を姓としたことに始まる。政実は九戸氏の24代にあたり、当時の九戸氏は本貫地の九戸に加えて二戸地方を制圧し、二戸福岡の九戸城(白鳥城)を本拠とし、その規模は三戸南部氏の三戸城を上回るものだったという。威勢も強大で、『篤焉家訓』によれば年次不詳ながらも政実は1万石の所領を知行しており、これは南部氏家中において第2位の知行高であった。
政実は南部氏の岩手郡制圧や紫波郡の斯波氏との抗争、その他諸戦に勇戦して功績を挙げ、弟の実親は南部氏24代・南部晴政の二女を娶るなど勢威を揮ったが、晴政・晴継父子が相次いで没したのちに南部信直が南部氏宗家の家督を継承するとこれに反発。天正18年(1590)頃より信直への叛意を顕わにするようになり、南部氏からの独立を目論む津軽為信が同年3月に浪岡城を攻めた際には出陣命令を受けたが病気と称して出陣せず、信直が催した天正19年(1591)正月の宴にも不参であった。そして同年3月、前年に勃発した葛西・大崎一揆に乗じてのことか、弟の実親や反信直勢力の櫛引・七戸・久慈氏らと結託して信直配下の木村・苫米地(とめぢ)・伝法寺氏らを攻め、南部宗家に叛旗を翻す(九戸政実の乱)。
しかし独力での鎮圧を困難と見た信直からの要請を受けて羽柴秀吉から派遣された討伐軍(総大将は豊臣秀次蒲生氏郷が討手の大将)の来襲を招くところとなり、5千余の兵で抗戦を続けたが、9月1日に支城の根曾利(ねそり)・姉帯(あねたい)を抜かれて本城を包囲されたため、討伐軍の軍監・浅野長政の勧告を受け入れて降伏。
しかし、開城に際しての約束は守られることなく籠城の者は全て斬られ、政実も京都に護送される最中の9月4日、陸奥国栗原郡石越で殺害された。