本姓は畠山。南北朝時代の奥州管領・畠山国氏の子孫にあたる。
二本松義国(尚国)の子。右京亮。陸奥国安達郡二本松城主。
天正元年(1574)頃に家督を譲られたと見られる。
伊達氏と抗争に及ぶが利あらず、属城の八丁目城を落とされた天正2年(1574)4月には劣勢が決定的となると「何処の陣へも50騎ずつの合力」負担するという条件で伊達輝宗に和睦を請い、7月頃にその承諾を得て麾下となった。しかし父祖の代より対立していた田村氏への対抗上から、同じく田村氏と対立する蘆名盛氏や大内定綱との結びつきを強めた。
その蘆名氏は佐竹義重と結んで伊達氏と敵対したため、二本松氏も伊達氏との和睦が破れることとなり、天正13年(1585)に伊達政宗が大内定綱の小手森城を攻めた際には大内方として参陣している。
同年10月には再び伊達氏に降伏を請い、これを認められると8日に輝宗の隠居所である安達郡宮森へ御礼に赴き、その会見の直後に輝宗を拉致して自領へ逃れようとしたが、阿武隈川畔の高田原にて輝宗を道連れに射殺された。法名は日峯円公大禅定門。
この義継と輝宗の最期には、輝宗が「自分に構わず義継を撃て」と下知したとするもの、異変を知って駆けつけた政宗が「父もろとも義継を撃て」と下知したとするもの、逃亡を断念した義継が輝宗を脇差で刺し殺したのちに自害したとするものなど、諸説ある。