立花鑑載(たちばな・あきとし) ?〜1568

豊後国大友氏の家臣。筑前国糟屋郡立花城の守将。通称は弥十郎。山城守。
立花氏は大友氏6代の大友貞宗の子・貞載を始祖とし、筑前国における大友勢力の要であったが、大友氏20代の大友義鑑のときに立花宗家の新五郎が誅伐されたため、一族の鑑載が立花氏の名跡を継いだ。
永禄8年(1565)、鑑載もまた毛利氏に通じて大友宗家の大友宗麟に叛いたため、吉弘鑑理らに攻められて追放されたが、のちに許されて再び立花城に入る。永禄10年(1567)秋には立花城を、毛利氏に通じていた宗像氏貞らに攻められているが、同じく立花城将の奴留湯氏とともにこれを撃退している。
しかし永禄11年(1568)の春、毛利氏に通じて前年から大友氏に叛いていた筑前国三笠郡宝満城主・高橋鑑種の勧誘に応じ、再び謀叛を起こした。
鑑載は堅城として名高い立花城に拠り、同年4月からは毛利氏より派遣された援軍や筑前国の毛利方国人領主らの支援を得たが、大友氏重臣の立花道雪(戸次鑑連)らの軍勢に攻められ、7月に至って寝返った家臣が大友方の軍兵を城中に引き入れたため抗しきれず、立花城は落城した(立花城の戦い)。
鑑載はこのときに自刃したとも、逃走を試みるも追討を受けて自害したともいう。