武田信繁(たけだ・のぶしげ) 1525〜1561

甲斐守護・武田信虎の二男。武田信玄の同母弟。幼名を次郎、左馬助と称したが、左馬助の唐名が典厩であるため、一般には「典厩信繁」が通り名となっている。また信繁の子・信豊も典厩を称したので、後世に信繁を「古典厩」と呼んだ。
父の信虎は長男である信玄を疎んじ、この信繁を偏愛していたことから、家督を信繁に譲ろうとしていたともいわれる。天文10年(1541)の信玄による信虎追放事件の際、信繁は兄の執った非常手段を暗黙のうちに理解し、その指示に従った。弱肉強食の戦国時代には家督相続を巡って親族相食むことも珍しくなかったが、この信繁は野心なく、信玄に終生変わらぬ忠義を貫き尽くしたのである。
永禄元年(1558)4月には『信繁家訓百箇』を創案して、武士あるいは為政者としての心がけを示し、家臣団の信玄への忠誠を定めている。この家訓は漢文で記されており、『論語』『三略』『書経』『碧巌録』など広範囲に及ぶ中国古典からの引用が随所に見られることから、相当量の漢書に精通していたことが知られる。
信玄のよき補佐役として軍略、見識ともに兼ね備えた名将であり、武田の真の副将軍の呼び声高く、家中の人望も厚かった。また、敵でもあった北条氏康上杉謙信織田信長らの諸将も信繁の名将ぶりを絶賛したという。
永禄4年(1561)9月の川中島の合戦:第4回では奮戦、上杉勢の奇襲を受けて壊滅の危機に直面した信玄本陣を守るために戦いぬき、華々しい討死を遂げた。37歳。法名は宗ァ院殿角山祖月居士。
真田昌幸の二男・幸村の本名も信繁だが、これは武田信繁の武勇と人望に深く感じ入り、それに肖ろうと命名したという。