トップページ > 秋鉄こぼれ話サイトマップ

秋田の鉄道に関するこぼれ話(余談・エピソード)を紹介します。秋田を語る際のネタにどうぞ!

こまち号が大曲から逆走する訳
平成9年に開業した秋田新幹線ですが、秋田駅〜大曲駅間は逆向きに走ります。
初めて乗った人は驚くとともに、なぜこんな線形にしてしまったのか疑問を感じるかと思います。
そもそも秋田新幹線は在来線と新幹線を直通させただけのものであり、基本的には在来線のままです。
もともと田沢湖線は盛岡と大曲を結ぶことを目的とした路線であり、秋田との直通は想定外でした。
東北新幹線の開業により秋田への接続線として位置付けられてからは幹線並みに整備されましたが、建設費圧縮と駅前商店街の反対により大曲での接続方向はそのままとなりました。
そして秋田新幹線の工事に際して再び議論が再燃し、大曲の北方に新駅を設置する案や大曲駅の手前から高架化して接続方向を逆にする案などが比較検討されました。
しかし、またしても費用対効果への疑問や地元の反対によって頓挫し、逆走が解消される機会は再び遠のいてしまいました。
新幹線より速い普通列車
秋田新幹線の秋田駅〜大曲駅間は、複線の片方だけを標準軌化したため、ダイヤによっては、こまち号と普通列車が並走する場面に遭遇します。
こまち号はノンストップで最高速度130km/hで走行し、普通列車は各駅停車で最高速度110km/hですから、一見すると両者は勝負になりません。
ところが、基本的に両者は別路線としてダイヤが組まれるため、こまち号同士の行き違いや徐行信号の現示などにより、一時的に低速になる場合があります。
そこに通常走行してきた普通列車が来ると「こまち号を追い抜く普通列車」が見られるわけです。
滅多に見ることはできませんが、並走するこまち号を追い抜いたときの優越感はたまりません。
鉄道をニ度逃した五城目
明治5年に日本で最初に開業した鉄道は、その利便性と経済効果の大きさから急激に全国に路線網が広がっていきました。
それは、常に後進地域とされていた東北地方も例外ではなく、明治24年には東北本線が全通しています。
この動きに触発された秋田県は、官営鉄道の敷設を強く国に働きかけ、軍部の意向も相まって、青森方と福島方の両方から建設が始まりました。
しかし、今まで見たこともない鉄道の存在は必ずしもすべての県民に歓迎されていたわけではなく、土地の接収や既存の交通網への打撃が不安要素となっていました。
特に、奥羽本線が町の中心を通ることになっていた五城目町では、強い反対運動が展開され、やむなく隣町の一日市(現:八郎潟町)に路線が変更となりました。
ところが、鉄道の良さを知ったときには既に手遅れで、何とか駅名を「五城目駅」としたことに成功したものの、鉄道に対する未練は捨てきれず、一日市から五城目までの鉄道が敷設されました。
しかし、大正15年に駅名を失い、昭和44年には鉄道も失いました。鉄道反対運動の代償は取り返しのつかないくらい大きかったのです。
国鉄に見捨てられた浅舞の悲劇
五城目町は鉄道反対運動の代償が高くついた例ですが、旧平鹿町の浅舞地区はまったく逆の例です。
平鹿郡に奥羽本線を敷設するとき、横手町と浅舞町は猛烈な誘致合戦を展開し、終盤は浅舞町が優勢だったようです。
しかし、政治の力を動かしたのは横手町の有力者であり、土壇場で横手に決定しました。
その後、横手町は発展して市制を敷き、現在も平鹿地域の中心地となっている一方、浅舞町は合併により町名を失い、強い未練から敷設した横荘線も昭和46年に廃止となっています。
さらに、平成17年には大合併により浅舞を合併した平鹿町も横手市に吸収されてしまいました。鉄道争奪戦に敗れたことが末代まで尾を引くことになったのです。
秋田内陸線は幹線候補だった?
奥羽本線の線路選定に紆余曲折があったことは前述したとおりですが、大曲〜大館間は2つのルート案が対立していました。
線路選定に当たっては当時の陸軍が強い影響力を持っており、奥羽本線の建設を推進したのも、軍事物資の輸送の確保が目的でした。
そのため、海からの艦砲射撃で線路が破壊されることを恐れ、海岸部の敷設には強く反対したとされ、秋田・能代を通すことにも難色を示したといいます。
そこで陸軍は、有事の輸送路確保という観点から、大曲から内陸部を通り大館に抜けるルートを主張しました。これが後の鷹角線であり、現在の秋田内陸縦貫鉄道です。
結果として海岸部を通したことで奥羽本線は幹線としての地位を築き上げましたが、もし秋田内陸線が奥羽本線を名乗っていたら、今とはまったく異なる地図になっていたかもしれません。
打算的に決められた能代への鉄路
五城目や横手と同様、能代も駅設置に至るまで紆余曲折がありましたが、事情が少し異なります。
奥羽本線の線路選定には、陸軍の思惑が強く働いたというのは前述したとおりですが、秋田以北の選定に当たっても、内陸部を通る仁別線案と海岸部を通る檜山線案が激しく対立しました。
能代・山本地区の有力者らによる熱心な誘致運動や国への陳情活動の結果、当初は仁別線案が推されていたのが、最終的には能代付近を通る檜山線案に決まりました。
ところが、帝国議会での質疑応答議事録を見る限り、「能代に鉄道を通すため」というよりは「仁別線案より檜山線案の方が建設費が安く済むから」というのが実情だったようです。
また、陸軍が懸念していた艦砲射撃についても「能代ではなく檜山を通すことによって被害のおそれは低くなる」「むしろ危険なのは、より海に近い土崎」と答弁する始末でした。
つまり、能代の市街地から離れた檜山の地に駅(現在の東能代駅)が設置されたのは、開通を急ぐ陸軍の意向と、建設費圧縮を求める議会の思惑が一致したからだったわけです。
なお、駅が市街地から離れて設置されたのは、既得権益を失う荷馬車組合や水運業界の反対があったからという俗説がまことしやかに流布されたようですが、事実ではないようです。
大曲と横手の仁義なき戦い
東北本線と奥羽本線は明治時代に開通しましたが、両線を接続する路線を巡り、大曲〜盛岡間の盛曲線(現:田沢湖線)と、黒沢尻〜横手間の横黒線(現:北上線)が対立していました。
盛曲線を推す大曲と、横黒線を推す横手は、政治家を巻き込んで激しい誘致合戦を展開し、横黒線が鉄道敷設法の予定線の候補になるなど、一時は横黒線が優勢でした。
その後、横黒線は軽便鉄道として建設されることになったものの、地形が比較的平坦だったこともあり、大正13年には開通、仙台〜秋田間の最短ルートとして優等列車も設定されました。
一方、盛曲線は、秋田・岩手県境に険しい仙岩峠があって難工事が見込まれた上に、太平洋戦争中は一部区間が不要不急路線に指定されるなど、開通は絶望視されていました。
それでも終戦後は、当初計画とは別ルートで建設が再開され、昭和41年に田沢湖〜赤渕間が開業して全通したものの、もともと沿線人口が希薄であり、完全な赤字ローカル線となっていました。
しかし、両者の立場を逆転させる出来事が起こります。昭和60年の東北新幹線の開業です。
田沢湖線は、東北新幹線へのアクセス路線として交流電化されてL特急が走るようになり、平成9年の秋田新幹線の開業により東京への直通列車が走るようになるなど、幹線級となりました。
一方、主役の座を奪われた北上線は、優等列車の設定がなくなり、仙台や首都圏への直通列車も消滅するなど、横手は高速鉄道網から取り残されてしまいました。
横手が復権するチャンスは奥羽新幹線の開通ですが、果たしてその日は来るのでしょうか。
南部藩に占領されたままの花輪線
幕末に勃発した、新政府軍(官軍)と旧幕府軍(奥羽列藩同盟)との戦い(戊辰戦争)は東北全土にも広がっていました。
現在は花輪線の半分近くを有する鹿角市ですが、かつては岩手県の南部藩(盛岡藩)の領地でした。
奥羽列藩同盟から脱退し官軍に寝返った久保田藩(秋田藩)は、東北の裏切り者として集中砲火を浴びましたが、官軍の勝利によりその報償として鹿角郡を分け与えられました。
しかし、終戦から150年以上経った現在でも、鹿角市内の花輪線には、岩手県を表す「陸中」を冠した駅が存在し、花輪線が接続する東北本線がJRから切り離された後も盛岡事業本部の管轄のままとなっています。
つまり、花輪線は現在でも南部藩に占領されたままとなっているのです。
鹿角地域の隆盛と衰退
鹿角市と小坂町が位置する鹿角地域は、千年以上前から金や銅などの鉱物が豊富な地域として知られ、秋田藩と南部藩(盛岡藩)でしばしば争奪戦が繰り広げられてきました。
明治維新後は、秋田県に属すると決められましたが、今度は鉄道による鹿角地域の席巻を目指し、秋田・岩手・青森3県でいくつもの鉄道計画が立ち上がりました。
秋田県では、私鉄の秋田鉄道が大館からの接続をもくろみ、岩手県では、盛岡から接続する鉄道構想が立ち上がり、青森県では、八戸から毛馬内経由での接続計画が模索されました。
最終的には、昭和6年に秋田鉄道と国鉄花輪線が陸中花輪駅(現:鹿角花輪駅)で接続して全線が国鉄花輪線となり、昭和62年にJR花輪線となって現在に至っています。
ところで、昭和40年代には、鹿角地域にビッグチャンスがありました。東北新幹線の延伸です。
盛岡〜青森間は、二戸・八戸経由の東回りルートと、大館・弘前経由の西回りルートが激しく対立し、西回りルートとなった場合は、鹿角地域に新幹線駅が設置される期待も膨らみました。
結局は、東回りルートが採用され、新幹線駅は幻となりましたが、今度は、沿線自治体により、花輪線の複線・電化を目指して期成同盟会が設立され、国鉄に対して働きかけが行われました。
しかし、栄華を誇った鉱山が相次いで閉山したことにより、鹿角地域の人口は急速に減少し、花輪線も存続の危機を迎えています。
かつて争奪の対象となってきた地は、今では鉄道空白地の憂き目に遭いかけています。
五能線の「五」って何?
国鉄線の名称の付け方にはいくつかのパターンがあり、両端の駅の漢字をくっつけたもの、代表駅の名称を付したもの、旧国名を用いたものなどがあります。
県内のJR線はそれらのどれに該当するかは一目瞭然かと思いますが、では、五能線はどれに該当するかご存じでしょうか。
「能」は能代からきていることは容易に推測できますが、「五」が何かは路線図を見ただけではなかなかわからないと思います。
実はこれは「五所川原」の「五」です。五能線の終点は川辺駅ですから、前述したパターンの例外かと考えそうですが、もともと五所川原〜川辺間は「陸奥鉄道」という私鉄でした。
また、東能代〜能代間も奥羽本線の支線に位置づけられていたので、開通時はまさに五所川原と能代が両端の駅だったわけです。
鉄道版戊辰戦争(南部戦線)
国鉄線の名称の付け方に一定のルールがあることは前述したとおりですが、県境にまたがる路線の命名に際しては、しばしば争奪戦が繰り広げられます。
大曲と盛岡を結ぶ田沢湖線は、全通前はそれぞれ県境をはさんで「生保内線」「橋場線」と呼ばれていたのですが、全通に際しての名称が議論されました。
秋田県は最初から「田沢湖線」を主張していましたが、岩手県は「盛大線」または「盛曲線」を主張していました。
しかし、沿線に主要な観光地を持つ秋田県が優位に立ち、昭和41年に秋田県の主張する「田沢湖線」に決定しました。
ところが、岩手県はただでは起きませんでした。北上〜横手間の路線名をそれまでの「横黒線」から強引に「北上線」に変えてしまいました。
世が昭和の時代となっても戊辰戦争は終わっていなかったのです。
鉄道版戊辰戦争(庄内戦線)
戊辰戦争時、久保田藩(秋田藩)が奥羽列藩同盟から脱退して新政府軍に寝返ったことにより、南部藩のみならず、庄内藩からも攻められることになりました。
そのとき、久保田藩と庄内藩の板挟みになったのが本荘藩・亀田藩(現在の由利本荘市)です。
当初は、どちらの藩も久保田藩側に付いたのですが、新政府軍の援軍として派兵された山口藩士の傍若無人な振る舞いに激怒し、庄内藩側に付くことになりました。
一時は久保田城に肉薄するほどの勢いでしたが、新政府軍の援軍が加増されたことによって撤退を余儀なくされ、最終的には庄内藩とともに降伏して戦争は終結しています。
この歴史上の流れと似たような経緯を辿ったのが羽越本線の羽後亀田駅以南です。
大正2年から3年にかけて、山形県の新庄から酒田方面に国鉄線が延伸され、大正11年には「陸羽西線」として羽後岩谷駅まで延伸されました。
一方、秋田〜羽後亀田間が「羽越北線」として大正9年に開通したことにより、折渡峠を挟んで旧庄内藩側の陸羽西線と旧久保田藩側の羽越北線が睨み合う形となりました。
そして大正13年の羽後亀田〜羽後岩谷間の開通時に、羽後亀田以南が羽越線に編入され、秋田に迫っていた陸羽西線は、新庄〜余目間にまで後退しました。
まさに戊辰戦争の結末さながらです。
呪われた折渡トンネル
羽越本線の折渡駅〜羽後岩谷駅間には「折渡トンネル」という長いトンネルがあります。
大正13年に開通したこのトンネルは、日本で最初にシールド工法が採用されたとして土木史上では有名ですが、実はあまり知られていないもう1つの歴史があります。
明治から大正にかけて造られた鉄道は、大陸から連行した中国人や朝鮮人を強制労働させたものが数多くあり、受刑者や出稼ぎ労働者を「タコ部屋」で働かせていた例も少なくありませんでした。
難工事だった折渡トンネルの完成までは多くの人柱が立てられたという噂もあり、付近での幽霊の目撃情報が絶えませんでした。
そこで、事実を確かめるべく、折渡トンネルの周辺を調査したところ、多数の人骨が発掘され、噂は歴史上の事実であると確認されたのです。
その後、昭和26年に本荘保線区の職員によって供養塔が建立され、今でもお供え物が絶えません。
普通列車が停まらない駅
国鉄時代に、信号場や季節乗降場だったところが駅に昇格した例は多く、秋田県においても、桂根駅と折渡駅がこれに当たります。
もともと周辺人口が少ないため、普通列車であっても1日に数本しか停車しません。
ところが、開業当初は有人駅でありながら、今では普通列車も通過することになってしまった駅が存在します。奥羽本線の糠沢駅です。
昭和31年に開業した同駅は、旧綴子村の端に位置し、通学の学生でたいへん賑わった時期もあり、かつては駅員も常駐していました。
しかし、鷹巣町に編入され経済の中枢を奪われると、周辺が急激に閑散となり、乗降客数は激減しました。そして昭和45年には無人化されています。
さらに、到達時分の短縮を目的に、701系電車が投入されたのを機に日中の普通列車を通過させるようになりました。これは旅客駅として設置された駅としては県内唯一です。
「上り」に下る列車
列車に「上り」「下り」があることは多くの方がご存じかと思います。すなわち、JRにおいては基本的に東京方面が「上り」で、青森方面が「下り」となります。
私鉄や第三セクター鉄道も基本的に主要駅のある方向が「上り」となりますが、必ずしも東京方面とは限りません。
青森方の鷹巣駅と東京方の角館駅を結ぶ秋田内陸縦貫鉄道は、鷹巣駅が起点と位置づけられたため、青森方面が「上り」で、東京方面が「下り」となっています。
そのためJRからみれば、東京方面である「上り」に列車が下ってきている、という形になります。
国鉄時代は角館方面が「上り」だったわけですから、第三セクター化によって上下が逆さまになったという全国的にも珍しい例です。
意外と身近なアイヌ語
東北地方北部から北海道にかけては太古の昔から先住民族であるアイヌ民族が住んでいました。
その後、明治期の北方開拓により次第に北へと追いやられ、今では北海道などに少数が住んでいるだけとなっています。
しかし、その文化は現在でも各地に残されており、特に地名にそれを見ることができます。
アイヌ語では、沢や川のことを「ナイ(内)」と表記するとされていて、山間部の駅名で「内」が付く駅はアイヌ語が語源となっている可能性があります。
ちなみに秋田内陸縦貫鉄道の「笑内駅」は「オ・カシ・ナイ」というアイヌ語の組み合わせに漢字を当てたものであるとされています。
電車通という名の道路
秋田市の土崎地区には、「旧電車通」という名の道路があります。
しかし、JR奥羽本線からは遠く離れており、付近にも電車らしきものは見当たりません。
実はこの道路は、旧秋田市交通局が営業していた路面電車の跡で、昭和41年まで走っていました。
この路線は、明治22年に馬車鉄道として開業したもので、県内最初の国鉄駅である陣場駅が開業したのが明治32年ですから、県内最初の鉄道ということになります。
ただ残念なことに、現地に行ってもかつての電車通であったことを示すものはなく、港町としての活気も失われています。
県内バス会社はもと鉄道会社
秋田県内で路線バスを運行している会社は3社(秋田中央交通、羽後交通、秋北バス)ありますが、このうち、秋田中央交通と羽後交通はもともと鉄道会社でした。
秋田中央交通は、八郎潟〜五城目間に電車を走らせていました。路線は昭和44年に廃止となりましたが、今でも廃線跡に沿った県道に廃止代替バスを走らせています。
一方、羽後交通の歴史は複雑です。横手と本荘とを鉄道で結ぶことを目的とした「横荘鉄道」と、湯沢〜西馬音内間に電車を走らせていた「雄勝鉄道」の2社が出発点です。
経営効率化を目的に2社が統合し「羽後鉄道」となり、その後「羽後交通」に改称して鉄道経営をしてきましたが、利用客の減少に歯止めがかからず、昭和48年までに鉄道は全廃、現在に至っています。
なお、秋北バスは、昭和18年の戦時統合により県北にあった13事業者の合併によって誕生した会社で、最初からバス専用の会社でした。
ちなみに秋田市内では、秋田市交通局が路面電車を運行していましたが、進出してきた秋田中央交通に対抗する形でバス路線に転換するも競争に敗れ、平成17年度で交通局自体が廃止されています。
公然なのに非公式で危険な乗り物
明治時代から昭和初期までは林業全盛期でした。
特に、有望な森林が広がっていた秋田県では、山から切り出した材木を輸送する手段として森林鉄道が網の目のように張り巡らされ、貯木場や国鉄主要駅に接続していました。
森林鉄道は、表向きは材木輸送専用の路線で、旅客扱いはしていないことになっていましたが、当時は道路網が貧弱で、自動車も高嶺の花だったことから、森林鉄道の活用が望まれました。
そこで、「便乗」という形で、沿線住民や登山客などが無蓋車や人夫用の簡易客車に乗車することを黙認するようになり、自己責任としつつ地域の重要な移動手段として重宝されました。
しかし、もともと旅客用の路線ではないことから、路盤などの設備が脆弱で勾配もきつく、脱線や車両転覆などの重大事故もしばしばで、乗客が死傷する事例もありました。
昭和30年代になると、木材資源の枯渇と道路網の整備が進み、森林鉄道は急速に姿を消していき、非公式で危険な乗り物は、過去のものとなりました。

下部ライン
Copyright© 2007-2026 Matagi☆Fighter サイトについて