1976年(昭和51年)4月11日建立。 合祀者7026柱。(1)
海軍設営隊とは前線において、作戦部隊の要求に応じて航空基地や陣地構築等を任務とした部隊である。
1872年(明治5年)2月28日、海軍省が設置されたときに、営繕事業は造船局営繕掛が所掌するものとされた。 この造船局営繕掛が、中央機構として、艦政局建築課、第二局第四課、第三局第二課、経理局第三課等を経て、1896年(明治29年)5月22日に臨時海軍建築部となった。 臨時海軍建築部は、日清戦争後の軍備拡張計画にともなう営繕業務の統括機関として設置されたものである。 1920年(大正9年)10月1日、臨時海軍建築部は廃止され海軍建築本部が置かれた。 建築本部は海軍大臣に直隷した外局機関であったが、第一次大戦後の軍縮期に至り、1923年(大正12年)4月1日に機構縮小の上、海軍省の内局である建築局となった。
昭和に入ると、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変をきっかけに、アメリカ・イギリスとの中国大陸政策をめぐり対立を深め、1933年(昭和8年)には国際連盟を脱退した。 1934年(昭和9年)、ワシントン海軍軍縮条約を廃棄し、1936年(昭和11年)にはロンドン海軍軍縮会議からも脱退し、再び軍備拡張期を迎えた。 1937年(昭和12年)の支那事変以降、日本を取り巻く外交関係は極度に悪化し、1940年(昭和15年)頃からは、準軍事態勢ともいえる状況にあった。 このような状況下で、施設部門の中央機構として外局なみの施設本部案が検討され、開戦直前の1941年(昭和16年)8月1日に海軍施設本部が発足した。 施設本部は海軍艦政本部、海軍航空本部と同列の海軍大臣に直隷した外局機関であり、兵科将校を長とし、局内には総務部、第一部、第二部が置かれた。
施設本部は「海軍大臣に直隷した外局機関」であるということからわかるように、軍政系統に属するものであったが、戦争に突入した場合には、海軍作戦上の要求に即応して前線航空基地その他水陸諸施設を急速に設営するために、軍令系統の作戦部隊の必要が起こってきた。 この必要から、開戦直前の1941年(昭和16年)10月から11月にかけて、特設設営班(第一〜第八)が編成され、艦隊に付属させられた。 開戦直後の1942年(昭和17年)1月には、さらに1コ設営班(第九)が編成された。 これらの設営班は文官である海軍技師を班長とし、幹部は海軍技手(ぎて)、作業員も徴用工員のみからなる軍属部隊であった。 これら設営班は、開戦後に占領した航空基地の補給修理整備に従事し、任務終了後の1942年(昭和17年)2月〜7月にかけて、トラック、ラバウル、シンガポール、スラバヤ、マニラなどの特設海軍建築部(のち施設部)に編入された。 1942年(昭和17年)3月には南方占領要地における桟橋の仮設修理を任務として、軍技師を班長とし、民間業者を主力とした臨時設営班が編成された。
1942年(昭和17年)4月頃からは、兵科将校の指揮する特設設営隊が編成された。 これらの設営隊は、1942年(昭和17年)5月のMO作戦、6月のミッドウェー・アリューシャン攻略作戦に投入が計画されていた。 連合軍の反抗が本格化したガダルカナル島戦以降、前線航空基地の急速設営が要求され、次々と増設された。 これらの航空基地設営を主任務とする設営隊に加え、防御陣地設営を主任務とする設営隊も編成され、その多くは、ラバウル、ソロモン等の南東方面へ進出した。
連合軍の本格的反撃に対抗するため、多数の航空基地の迅速な建設が要求された。 これに対応するため、航空基地急速設営のための機械化と、最前線での設営任務を遂行するための軍隊化が海軍設営隊に対して要求された。 海軍施設本部により、ブルドーザーやスクレイパー等の建設機械の国産化の努力も進められたが、これらの国産設営機械を装備した「機械化」設営隊を前線に出動できるようになったのは、1943年(昭和18年)の下半期に入ってからであった。 開戦直前に編成された設営班は、前述のように軍属部隊であったが、1942年(昭和17年)に施設系にも武官制がしかれ、技術科士官の採用、技師および技手の技術科士官への転官が行なわれたが、相変わらず徴用工員を主力とした軍人・軍属の混成部隊であった。 1944年5月に、懸案であった下士官兵についても、技術下士官および技術兵の制度ができ、「軍人」設営隊が編成されるようになった。
1945年(昭和20年)に入ってからは、本土航空基地の滑走路延長、掩体壕の増備、エ作庁施設の地下移設、さらに民間軍需工場の防備施設などのために多数の設営隊が編成された。
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