満州開拓団の悲惨な結末
                     2012年10月 Minade Mamoru Nowar
1.日本の政治は軍部に乗っ取られた

渡部昇一上智大学名誉教授は、
著書『昭和史 松本清張と私 大正末期〜二・二六事件(ビジネス社 2005年12月発行)の
第454頁で、
「大正2年(1913年)廃止された軍部大臣現役武官制が
昭和11年(1936年)、廣田内閣によって復活し、
これによって日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのです」
と述べている。

渡部名誉教授は第459頁〜第460頁で「廣田内閣が残したものは、
@【軍部大臣現役武官制】の復活(昭和11年=1936年)
A【日独防共協定】調印(昭和11年=1936年)
B軍拡方針を決めた国策の基準設定
いずれも日本の命取りになるようなことばかりでした」「この廣田内閣の
ときに日本の議会制民主主義の可能性はすべてつぶされたのです」

「廣田内閣が日本の立憲政治を葬り、
日本を軍国主義の方向に押しやったという事実

あまりにも重いといわざるをえません」と述べている。

2.満州移民推進を決定

1937年、廣田内閣は旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。

2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。



しかし、満州事変後、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。

3.関東軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の
関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。



2012年6月、下記の有力出版社XXX社の雑誌広告が、
日本を代表する大手新聞ZZZ紙に大きく掲載された。



「覆る昭和史」、「五族協和の志」、「満州建国の真実」、「曠野に賭けた夢」、
「明治維新の理想」、「東亜大同のため、ついに起つ」というフレーズの
おぞましさに、筆者は寒気がして、頭がクラクラした。

筆者は、この広告は、消費者基本法に違反する誇大虚偽広告に該当
すると思うのだが? このZZZ新聞社には広告内容を審査する機能はないようである。

読売新聞社は2005年8月から2006年3月まで『検証 戦争責任』という大型特集記事を
連載した。この連載をまとめた下記のパンフレットを作成して200円で頒布した。



系列の中央公論新社から下記の本を2006年7月に発行した。



さらに2006年12月には下記の英文書が読売新聞東京本社から発行された。



ZZZ新聞社はこれらの記事や本を読んでいないようである。

満州国建国の前々年、1931年に起きた満州事変は、昭和天皇、日本政府、
陸軍大臣、陸軍参謀総長、さらには、関東軍司令官の事前承認なしに、
関東軍の高級参謀、石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた
不法な軍事行動であった。

この不法な軍事行動を補完するため満州国が建国された。

国際社会は、国際連盟の場において、こぞって日本の不法な軍事行動
満州国建国を非難した。

1933年2月24日の国際連盟総会で、リットン報告書に基づいて
日本による満州国建国の是非が討議された。

日本を非とする国42か国に対して、日本支持国はゼロであった。
日本(実質的には旧大日本帝国陸軍)はこれを不服として国際連盟を脱退して、
自ら世界の孤児となる道を選んだ。

不法な軍事行動であった満州事変を指揮した石原莞爾、及び、板垣征四郎は、
陸軍刑法のせんけん(擅権)で、当然、死刑に処せられるべきであった。

しかし、日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、石原莞爾と板垣征四郎を
陸軍刑法違反で軍法会議にかけることすらできなかった。

満州事変以後、日本は、なし崩し的に、【立憲君主制・法治国家】から、
【非法治・軍部専制軍事国家】へ移行した。

明治維新によって築かれた【立憲君主制・法治国家】が崩壊した。

つまり、昭和天皇統治権・統帥権を含む国家権力
旧大日本帝国陸軍
高級参謀たちに簒奪された
ということである。

以後、満州事変によって、日本国を乗っ取った旧大日本帝国陸軍は、
戦争への道をためらうことなく突き進み、
筆舌に尽くせぬ惨禍を海外・国内に引き起こして破滅した。

【言論の自由】が無くなり、大手新聞は、連日、
中国侵略戦争における【皇軍の赫々たる戦果(戦禍?)】を
報道する旧大日本帝国陸軍の御用機関に成り果てた。

4.関東軍は、開拓団の老人、婦女子、
  小学生、幼乳児を、見棄て、見殺しにした


日本敗戦と同時に、これら【匪賊】たちは、報復のため、一斉に、
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。

開拓団の成年男子(18歳〜45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本軍(関東軍)の【根こそぎ動員】で徴兵され、その後、
極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。

徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。

敗戦直前、関東軍は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。

【根こそぎ動員】で、夫や息子を徴兵されて、頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児について、関東軍は
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。


ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかった


関東軍に見棄てられ、見殺しにされたおびただしい数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児は、

ソ連軍戦車の銃撃

中国人の、鍬、棍棒などによる襲撃で殺害された。

逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。



逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、

【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)
絶望(自殺)等でほとんどが死亡した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

この旧大日本帝国陸軍と関東軍の、
最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見棄て見殺しの罪】を見逃すことはできない。

哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。

廣田内閣の満州移民推進政策
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。

5.開拓団避難民の悲劇

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された
『ソ連参戦の衝撃−満蒙開拓民はなぜ取り残されたか』は、
「当時、中国東北部(満州)に住んでいた国策開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、
多くの家庭が母子老人家庭となっていた。

戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭避難民は、
戦闘に巻き込まれて約3万人が死亡した。

その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と報じている。

この番組では放送されなかったが、
合田一道『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の終焉』
(扶桑社 2000年8月発行)は、
満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、
【殺害】されたり、【集団自決(=集団自殺)に追い込まれたりした
悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
満蒙終戦史 全928頁(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)
第812頁〜第813頁は次のように述べている。

受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)
すべての運命であった。

もちろん程度の差はある。しかしながら、
ソ連軍の満州進撃の日から、遣送帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように
悲惨深刻を極めた。

この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。

敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に崩壊した。

ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、
原住民の蜂起などが相次いで、
いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、
したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、
関東軍と日本人役人がいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。

しかも、それまでに、
開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、
開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが
混乱と悲劇を一層増大したのであった。

ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して
集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、
ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。

ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、
全滅した開拓団、及び
1,000名以上の自殺者を出した開拓団は、
100以上を算える。


参考情報:羽田澄子監督の「嗚呼 満蒙開拓団」2009年8月


難民生活中の死亡を併せて、
満州の全開拓人口の約30%が死亡したものと見られる。

終戦時の満州開拓団等人口と日ソ戦争による死亡・未引揚者数

項目 開拓団 義勇隊 報国農場 合計
団数 944 102? 74 1,131
終戦時在籍者 243,488 22,828 4,112 270,428
調査済団数 847 91 67 1,005
同上在籍者 213,663 22,518 4,976 241,157
死亡者数 61,190 3,077 1,056 65,323
未引揚者数 23,746 2,218 623 26,587
帰還者数 128,710 17,223 3,297 149,230

(1953年(昭和28年)3月現在、外務省調査資料)

同書第518頁〜第519頁は「全満州にわたって、終戦前後の混乱に
殉難して亡くなった人は、調査統計に出ている数でも、207,980人となっている。

恐らく実際には20万人をずっと上まわっていたといえよう。

これらの人の死因はいろいろであった。

一番多かったのが伝染病によるもので、発疹チブスやコレラで亡くなった。

ついで栄養失調によるものが多く、乳幼児がバタバタと死んでいった。

各地別の死亡者数は次の通りである。」

全満州各地別死亡者調査数

地名 埋骨箇所 死亡者数
大連:関東州 2 15,000
鞍山 1 1,500
遼陽 1 800
蘇家屯 1 450
奉天 3 37,000
撫順 3 5,000
本渓湖 1 250
安東 1 3,800
延吉 2 54,536
牡丹江 1 4,000
佳木斯 1 150
哈爾浜 6 7,715
斉斉哈爾 2 2,400
熊岳城 2 60
大石橋 1 200
錦州 3 3,100
錦西 3 39
通化 2 4,500
鉄嶺 1 650
四平 1 60
公主嶺 1,000
新京 3 27,319
吉林 3,555
嫩江 1 700
興安街 4 1,999
札蘭屯 1 200
五常 8 665
延寿方正 4 380
琿春 2 955
合計 207,980

第444頁に1945年(昭和20年)8月9日、日ソ開戦当時の全満州の
日本人の人口表が掲載されている。これによると関東州を除く19省市の
人口が1,320,858人、大連:関東州の人口が228,842人、
合計1,549,700人となっている。

ちなみに、GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)が1950年に作成
した特別報告書『Special Report-Japanese Prisoners of War:
Life and Death in Soviet P.W.Camps』
では
関東州を除く満州全地区が1,105,837人、大連:関東州が223,093人、
合計1,328,930人である。220,770人の差がある。

省市名 日本人人口
新京特別市 161,712
吉林省 75,233
竜江省 48,156
北安省 62,408
黒河省 14,059
三江省 65,612
東安省 61,396
牡丹江省 97,931
間島省 29,332
浜江省 41,222
哈爾浜市 78,695
通化省 15,746
安東省 36,930
奉天省 177,739
奉天市 247,765
四平省 29,150
錦州省 62,914
熱河省 11,807
興安総省 23,383
不一致補正 -20,332
小計 1,320,858
関東州:大連 228,842
合計 1,549,700

満蒙終戦史は以上の通り

 渡部昇一上智大学名誉教授の著書『昭和史 松本清張と私 大正末期〜
二・二六事件
(ビジネス社 2005年12月発行)第191頁で下記のように述べている。

「(1933年当時、満州で)匪賊(ひぞく)と呼ばれるテロリストたちは、
推定100万人から300万人いたといわれます。

ほかにも「半農半賊=状況次第で匪賊になる」、

「宗教匪」、「政治匪=敗残兵」、「共匪=共産ゲリラ」・・・など神出鬼没、

昭和8年(1933年)だけでも、匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は
72件を数えた、というデータがあります。」

渡部名誉教授が
匪賊と表現されている100万人〜300万人の中国人暴徒の
大部分は、旧大日本帝国陸軍の
【満蒙開拓団】政策によって
土地を奪われた農民たちである。


1931年の満州事変以後、東宮鉄男(関東軍陸軍大尉、張作霖殺害の実行犯)
石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の首謀者)、加藤完治(農業指導者)
石黒忠篤らは【満蒙開拓団】政策を積極的に推進した。

かれらは、誰ひとりとして、
【土地と水、特に農地の争奪こそが人類の紛争の根源】
という発想を持たなかった。

果てしなく続き、解決の曙光さえ見えないイスラエルとパレスチナの
悲惨な紛争も、原因は【土地と水の争奪】である。

ソ連軍と武装中国人暴徒集団のレイプ(強姦)、暴行、殺戮、強奪によって
約24万人の開拓団母子老人家庭避難民が死亡した。

旧大日本帝国軍部の【満蒙開拓団政策】と、1945年7月の
【開拓団の日本人母子老人家庭は、見棄て、見殺しにする】方針の
痛ましい犠牲者である。

『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の終焉』第53頁〜第71頁は、
団員、420人あまりが【集団自決】した哈達河(ハタホ)開拓団中央
グループの悲惨な最期について、納富善蔵さんの談話を載せている。
(麻山事件)

哈達河(ハタホ)開拓団は鶏西(チーシー)市から東へ約8キロ、当時の
ソ連との国境のすぐ近くにあった開拓団である。

哈達河(ハタホ)開拓団中央グループは逃避行の途中に、
ソ連軍の戦車隊と武装した中国人暴徒集団に前後をはさまれて
身動きできなくなり、ついに全員集団自決の道をたどったのである。

中央グループが集団自決する前に、先頭グループ約300人も、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団に襲われて、殺害されるものや、
負傷者が続出して集団自決していた。
 
「まず団長がピストルで頭部を撃ち抜き死んだ。
続いてあちこちで自殺が始まった。

銃を手にした男たちが、白い布で鉢巻きをしたり、目隠しした
わが妻、わが子を撃ち殺した。

短刀でわが子の胸を突き刺し自分も死んでいく母もいた。

喉を突き血みどろになって転がる者、草をわしづかみにしてもだえる者、
この世のものとは思えない恐ろしい情景だった」。


NASA衛星画像

参考資料1:
蓑口一哲著『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史V』(新生出版 2005年6月発行)
 『第1章 哈達河開拓団と麻山事件』第7頁〜第86頁
参考資料2:
中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』草思社 1983年3月発行

 同書第98頁〜第102頁には、ハルビン市と牡丹江市の間にある現在の
賓県市にあった大泉子開拓団と財神開拓団の悲惨なデータを載せている。

45年8月15日現在、両開拓団合わせて、550人いた。
武装した中国人暴徒集団に襲われて殺害されたものと、
自決者(=自殺者)は294人であった。

武装した中国人暴徒集団に襲われて、男手のない女子・子供・老人だけの
開拓団は、もう生きられないと観念して自決(=自殺)の道を選んだのである。

その後阿城に収容されたが病死者が続出、143人に達した。
死亡者は合計437人、全体の79.5%に達する。

 同書第244頁で、著者の合田一道氏は
「満州開拓団の人たちを死地に追いやったのは、まぎれもなく
わが国の政治であったと
断言せざるを得ないのである」と述べている。

中国軍国防大学教官で、戦史研究家の徐焔(シュ・イェン)大佐は、
著書 『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツゥ・ジェンロン)訳 三五館1993年8月発行)第180頁

「土地を日本「開拓団」に強奪された農民と、鉱山や工事現場で
強制労働に従事させられ地獄のような生活をした労働者は
憎しみが特に深く、関東軍の敗退後、彼らが最初にしたことは

棍棒、鍬などを手に、日本人や旧「満州国」の警察などに
復讐することだった」
と述べている。

 1945年8月、凶暴なソ連軍兵士たちと、日本人に対する復讐意識に
もえる武装した中国人暴徒たち
の、レイプ(強姦)、暴行、殺戮、強奪の
犠牲となった満州開拓団の人たちに対するインタビューを中心に、
数多くの自決者(=自殺者)を出した満州開拓団の悲惨な末路について
詳しく述べた著書、『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史V』(新生出版 2005年6月
発行)
』の 第284頁で、著者の蓑口一哲氏は下記のように述べている。



満州事変後、満蒙開拓団という新しい政策を推進したのは、
東宮鉄男(関東軍陸軍大尉、張作霖殺害の実行犯)、
石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の首謀者)
加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らである。

当時の高橋是清蔵相は満蒙開拓団に不賛成であった。

高橋蔵相の【移民など可哀想だから良くない】という一言で
いったんはしぼみかけたこの構想であるが、
1932年の5.15事件(海軍将校が犬養毅首相ら政府首脳を
殺害したテロ事件)
で、高橋是清は更迭されてしまう。

満州国建国後、この構想は具体化された。

日本を破滅に追いやった満州事変の首謀者である
石原莞爾ら関東軍参謀たちは、1945年8月の
【満州開拓団の悲劇】の責任者としても、
その罪を厳しく糾弾されなければならない。

 半藤一利氏は、著書『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文藝春秋1999年7月発行)
の第313頁で、「囚人部隊を先頭に立てたという説もあるが、(満州へ)
一番乗りで突進してきたソ連軍兵士はドイツ戦線で鍛えられた猛者が多く、
戦場で鍛えられはしたが、教育や訓練で鍛えられる余裕のなかったものが
多かった。(日本人は)時計はもとより、机、椅子、鉛筆、消しゴム・・・
何から何まで奪われた」

 「かれらが開拓団の逃避行を平気で攻撃してきたのは、
戦場の常とはいえ、許されることではない
」と述べている。
保護すべき日本人母子老人家庭難民や民間人である開拓団員を
保護せずに、逆に、レイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪を行ったことは
【人道に反する罪】である。

 前掲書第313頁に述べられている通り、犠牲はそれらにとどまらない。
いまにあとをひく数千人の残留孤児の問題である。規律が滅茶苦茶な
ソ連軍兵士のレイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪によって、日本人母子老人
家庭避難民は、【子供を置き去りにせざるを得なかった】ほど、
死と隣り合わせの極限状態に置かれたのである。

 前掲書第271頁〜第273頁で半藤一利氏は次のように述べている。
「日本本土では確実に、そして早急に平和と安息が訪れてきている。しかし
満州では、まさしくその正反対のことが行われようとしていた。ソ連軍の
進駐の日を境に、大小都市や町で【悪夢】がはじまったのである。市内の
治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。殺人、婦女強姦、強奪、
暴行はひんぴんとして行われだした。8月18日以降、ハルビン市はソ連兵
による強奪、暴行、強姦の街と化した。」


NASA衛星画像

You Tube:【軍歌】関東軍軍歌
(筆者は満州の国民学校で毎日歌っていた。歌詞の一部は変わっているが。)

You Tube:
満州国国歌



     


6.奉天
(現在の瀋陽)における
開拓団・婦女子の悲惨な状況

米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年〜46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。

元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」

日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。

参考資料:
読売新聞
(夕刊)2006年11月24日第22面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
複製、送信、出版、頒布、翻訳等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。






結果から判断するならば、石原莞爾、板垣征四郎、及び、
かられの「だいそれた犯罪」を容認・支持した
旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちの脅しに負けた
廣田内閣の犯した罪はあまりにも重いといわざるをえない。

誠実一筋に生き、人を責め、非難することのなかった
廣田元首相は、
首相の座についたために、
旧大日本帝国陸軍の犯した罪をわが身に背負って、
A級戦犯という濡れ衣を着せられて、
絞首刑に処せられた。

正に悲劇であった。


7.誠実で、人間として実に立派であった廣田弘毅元首相

作家・城山三郎氏の名作『落日燃ゆ』(新潮社 1974年1月発行)の中に描かれている通り、
廣田弘毅元首相は、誠実な、人間としては実に立派な方であった。

同書第119頁は、
アメリカ大使グルーは、「廣田は【外交による国家防衛】へ政策を転換させ、
荒木陸軍大将を辞職に追いやり、軍事を外交から締め出そうとした。

ここ数か月間、廣田は間断なく、また、私の見るところでは、
真摯に、中国、ソ連、英国、および米国と交渉するための
友好的な基礎を建設することに努めた」と友人あての手紙に書いたとある。

極東国際軍事裁判(東京裁判)において
廣田弘毅元首相は一言も弁明しなかった。

廣田元首相の責任が厳しく問われたのは廣田内閣が制定した
【国策の基準】についてであつた。

東京裁判の検事団は、日本の最高指導者たちの【共同謀議】によって、
中国に対する侵略が進められ、ドイツと同盟して対米開戦して、世界制覇を
目指していたという筋書きを描いていた。

しかし、無知で、あまりにも愚かであった旧大日本帝国陸軍の
最高指導者たちには、そんな大構想を描く能力はまったくなく、
かつ、高級参謀を中核とする若手将校たちの暴走を止められなかった
ていたらくであったので、【共同謀議】を立証する事実は見つからなかった。

そこで検事団は、廣田内閣の【国策の基準】【共同謀議】に仕立て上げるべく、
多数の証人に証言させて、廣田元首相を【共同謀議】の張本人に仕立て上げた。

再三、ウィリアム・ウェブ裁判長の不公正な弁護妨害に強く抗議した
ディビッド・スミス弁護人は実質的に追放された。

スミス弁護人と守島伍郎弁護人は、廣田元首相が自ら証言台に立ち、
中国侵略も南京大虐殺もすべて陸軍の暴走であった事実を述べるよう強く求めた。

しかし、廣田元首相は、「陸軍が自分の意思に反して暴走したことは事実だが、
自分には首相としての責任があった」として、自分に不利な証言に対して
一切反論しなかった。弁護を諦めて守島伍郎弁護人は辞任した。

 

満州事変の翌年の1932年5月15日に起きた犬養毅首相を殺害した
無知で愚かな若手海軍将校によるテロ事件(5.15事件)と、

1936年2月26日に起きた斎籐実(さいとう・まこと)内大臣(元首相)、
高橋是清蔵相(元首相)を殺害した無知で愚かな若手陸軍将校による
テロ事件(2.26事件)は日本を破滅させた昭和戦争の号砲であった。

犬養首相(当時)、斎藤元首相、高橋元首相という、
広い視野をもった良識ある元首相たちを殺害した
無知で愚かな若手将校たちの愚かなテロが、
日本だけでも軍人・市民合わせて310万人以上の死亡者を出した
昭和戦争の惨禍に繋がったのである。

兵士を巻き込んで行われたこのテロで、当時の岡田啓介首相と
鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)は辛うじて殺害を免れたが、
以後、無知で愚かな陸海軍将校たちに【国賊】と罵られ、
【テロで殺害される恐怖】で、
政治家たちは自由に意思決定することができなくなった。

特に軍事費の増大に反対する政治家は、真っ先に
無知で愚かな陸海軍将校たちのテロの標的にされたので、
満州事変以後急激に増大して日本経済を疲弊させた軍事費増大に
反対する政治家はいなくなった。

日本の軍事費の推移
藤原彰著『日本現代史大系 軍事史』 東洋経済新報社 1961年2月発行
第271頁〜第272頁より引用

年度 国家予算総額 直接軍事費 軍事費比率
昭和01 1,578,826千円 437,111千円 27.1%
昭和02 1,765,723千円 494,612千円 28.0%
昭和03 1,814,855千円 517,173千円 28.5%
昭和04 1,736,317千円 497,516千円 27.1%
昭和05 1,557,864千円 444,258千円 28.5%
昭和06
1931年
1,476,875千円 461,298千円 31.2% 満州事変
昭和07 1,950,141千円 701,539千円 35.9%
昭和08 2,254,662千円 853,863千円 37.9%
昭和09 2,163,004千円 951,895千円 44.0%
昭和10 2,206,478千円 1,042,621千円 46.1%
昭和11 2,282,176千円 1,088,888千円 47.7%
昭和12
1937年
4,742,320千円 3,277,937千円 69.0% 日中戦争
昭和13 7,766,259千円 5,962,749千円 76.8% 日中戦争
昭和14 8,802,943千円 6,468,077千円 73.4% 日中戦争
昭和15 10,982,755千円 7,947,196千円 72.5% 日中戦争
昭和16 16,542,832千円 12,503,424千円 75.7% 太平洋戦争
昭和17 24,406,382千円 18,836,742千円 77.0% 太平洋戦争
昭和18 38,001,015千円 29,828,820千円 78.5% 太平洋戦争
昭和19
1944年
86,159,861千円 73,514,674千円 85.5% 太平洋戦争
昭和20 37,961,250千円 17,087,683千円 44.8% 太平洋戦争

ちなみに、加藤陽子・東大教授は、著書『戦争の日本近現代史』(講談社新書)
第283〜4頁で、
「1940年初頭の数字によれば、この時中国にいた支那派遣軍は
85万人の規模に膨れあがり、太平洋戦争開戦前、すでに20万人もの
戦死者を出していた」と述べている。

時点 陸軍兵員数 海軍兵員数 陸海軍合計兵員数
1940年 昭和15年 12月 135万人 22万人 157万人
1941年 昭和16年 12月 210万人 31万人 241万人
1942年 昭和17年 12月 240万人 43万人 283万人
1943年 昭和18年 12月 290万人 71万人 361万人
1944年 昭和19年 12月 410万人 130万人 540万人
1945年 昭和20年 08月 547万人 169万人 716万人

注:1940年12月 8日、対米英米開戦。 
  1945年 8月15日、連合国に無条件降伏。


地域別・陸海軍別 終戦時の残存兵員数
厚生省援護局 昭和39年3月

本表数字には、朝鮮人、台湾人、軍属、支那事変戦没者/陸軍181000人 海軍7700人を含む。

      陸  軍     海  軍     総  計
    終戦時
残存兵員数
S12.7.7〜
戦没者数
  終戦時
残存兵員数
S12.7.7〜
戦没者数
  終戦時
残存兵員数
S12.7.7〜
戦没者数
日本本土(含周辺) 2,372,700 58,100 1,962,800 45,800 4,335,500 103,900
小笠原諸島 15,000 2,700 8,600 12,500 23,600 15,200
沖縄諸島 40,900 67,900 11,200 21,500 52,100 89,400
台 湾 128,100 28,500 62,400 10,600 190,500 39,100
朝 鮮 294,200 19,600 41,700 6,900 335,900 26,500
樺太・千島 88,000 8,200 3,000 3,200 91,000 11,400
満州 664,000 45,900 1,500 800 665,500 46,700
中国本土(含香港) 1,055,700 435,600 69,200 20,100 1,124,900 455,700
シベリア 0 52,300 0 400 0 52,700
中部太平洋諸島 48,600 95,800 58,300 151,400 106,900 247,200
フィリピン 97,300 377,500 29,900 121,100 127,200 498,600
仏領インドシナ 90,400 7,900 7,800 4,500 98,200 12,400
タイ 106,000 6,900 1,500 100 107,500 7,000
ビルマ・インド 70,400 163,000 1,100 1,500 71,500 164,500
マレー・シンガポール 84,800 8,500 49,900 2,900 134,700 11,400
ニューギニア 30,200 112,400 3,600 15,200 33,800 127,600
その他 286,100 156,400 104,200 55,300 390,300 211,700
合 計 5,472,400 1,647,,200 2,416,700 473,800 7,889,100 2,121,000

海軍大臣であった米内光政や海軍次官であった山本五十六ですら
テロの恐怖にさらされていた。

陸軍内部において、内ゲバで、永田鉄山陸軍省軍務局長が殺害された。

【話せばわかる】が通じなかった、テロを行った無知で愚かな
陸海軍の若手将校たちは、文字通り【気狂いに刃物】であった。
無知な彼らの愚かなテロ行為が日本を破滅に導いたのである。

無知で愚かな陸海軍将校テロリストたちの犯した罪はあまりにも重い。
日本の国語辞典にある【愛国】とは正反対の行動であった。

限りなく膨張を続けた軍事費は国民の生活をどん底に陥れた。

旧大日本帝国陸海軍の高給職業軍人たちは、
自分たちはゼイタクのかぎりを尽くしていながら、
国民に対しては、【ゼイタクは敵だ】【ほしがりません勝つまでは】との
徹底した洗脳教育を行い、耐乏生活を強制した。

廣田内閣は岡田内閣の後を受けて1936年3月9日に成立したのだが、
旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちに脅かされ続け、
最後は、寺内寿一陸相の議会解散要求のため1937年(昭和12年)
2月に総辞職した。この年の7月7日に日中戦争が始まる。

陸軍の石原莞爾が引き起こした満州事変泥沼化した日中戦争になった。

外交の松岡洋右が結んだ日独伊三国軍事同盟が日本を地獄へと導いた。



関連サイト:

韓国従軍慰安婦問題

田母神俊雄氏の詭弁(きべん

藤原正彦『日本国民に告ぐ』批判、及び『日本人の誇り』読後感