車両編

乗車券編

昔の名前で出ています

横浜市営バス
消え行く系統(みち)の記憶

なつかしの系統


 横浜市交通局TOPに戻る
Return to Yokohama City Transprrtation Bureau
神奈川県TOPに戻る
Return to index of Kanagawa Prefecture
表紙に戻る
Return to index of this website

 横浜市営バスが一番元気だったのは、いつ頃でしょうか?

 私事になりますが、小学校低学年だった頃は港北区在住で、東急バスで通学していました。(近くには小学校がまだなかったので)4年生の半ばで戸塚区に転校し、近くの小学校までは徒歩通学でした。そして中学校も徒歩、高校は神奈中バスを乗り継いで通っていました。従って市内在住とはいえ、横浜市営バスにはほとんど縁がなかったはずですが、それでも高校時代にはお小遣いを使って、休日には一日乗車券を購入して市営バスを乗り回るようになりました。(その時の乗車券の一部を「乗車券編」で公開)

 卒業後社会人となり、ある程度高価なカメラも…もちろん当時はデジタルなんてなかった…手に入るようになり、他の民営バスと同じように市営バスの写真を取り捲るようになりました。大半は車両で、それを車両編でご覧頂きますが、この他に走行風景もある程度は撮っていました。ここで撮った中には、二十数年後には再編成の嵐の中に消えて行ったものもあり、撮っておいて良かったと思えるものがたくさんあります。(一方で撮っておけばよかったと後悔したものもあります)

 今にして思えば、横浜市営バスが一番元気だったのは、市電が廃止された1973年…といっても私は市電には乗った事がなかった…から、再編成の嵐が吹き荒れる直前の2000年代前半、特に「横浜博覧会」の前後である1980年代~1990年代前半位だったろうと思うのです。この頃は宅地開発が急で、若葉台団地や港北ニュータウンに新しい事業の拠点が開設された時期でもありました。もちろん車両のレベルはまだ今ほど高くはなく、冷房車もこれからだったし、ノンステップなんて夢見たいなものでしたが、それでも民営バスに伍して市内のほぼ全域で活躍する市営バスは、見て頼もしく、乗って楽しいものでした。(個人的には車内の前部に掲げられた針時計が印象に残っています)そんな時代の車両を中心とした画像を、コンテンツ全体をリニューアルした上で公開いたします。

 今回新たに画像を追加していますが、一部には本体で掲載している画像より年式が最近のものが含まれています。多少混乱もされるかと思いますが、他事業者も含め、本体の画像は1998年以降…ある程度私の中でバス撮影のテクニック、なんてたいそうなものではなく、いわば「こだわり」みたいなものが確立した頃…の撮影であり、「アーカイヴ」ではそれ以前の画像を扱っています。

 関連して、初めてスクールバスの画像を公開いたします。これは市内にいくつかある養護学校(最近は「特別支援学校」と呼称)へ生徒さんを送り迎えするためのもので、プライバシーの点もあって公開を控えてきましたが、既に撮影から10年以上たっており、今回プライバシー保護の観点で画像をある程度加工して公開させて頂く事と致しました。現在は全て民営(臨港・神奈中・東洋観光等)の運行に移譲されており、この点でも貴重な記録となりえるかと期待しています。

東京ガス付近を走る85系統。行先の下水処理場の終点は、当時は実際には「事務所前」だった。現在に至るまで一般の旅客は立ち入れない場所。かつては一部の便が浜小学校を発着していたが、先の再編成で磯子駅~浜小学校前間が廃止。磯子駅は裏口と言える東口発着であり、事実上他のバス路線との直接の接続がなくなった。
緑〔営〕の39系統が泉谷寺を横目に見て走る。本来は横浜駅西口~中山駅間を走る割と長距離の系統で、かつては1・36系統も別ルートで走っていたが、廃止・短縮により、市営バスでは同系統だけになった。最近は中型車が運用の中心になっているのが残念。画像の小机駅行は朝ラッシュ時に1往復だけの設定で、現在も運行されている。
神奈川県の高校野球のメッカ、保土ヶ谷球場を右に見て走る25系統。この系統はお隣通しの大門通と帷子町会館前の間は、星川町~野球場~花見台とかなり大回りで走り、循環系統に近い。行先表示の「大門通」は朝方ラッシュ時に設定されていた。現在は逆に深夜に運行されている。他に「花見台」行もあったが、22系統の新設もあり、現在は設定がない。
市営バスが元気だった、あの頃