拝殿と本殿
放生池
長谷寺からの相模湾を望む
長谷寺と云うと奈良の長谷寺が有名であるが、奈良の長谷寺は、「真言宗 豊山派」の総本山になっている。しかし、ここ鎌倉の長谷寺は、浄土宗であり、宗派は別ではあるが、開基は、奈良の長谷寺に似た縁起となっている。即ち、天平8年(736)に藤原鎌足の孫にあたる藤原房前が開基、開山は徳道上人と伝えられている。本尊の十一面観音菩薩像は、養老5年(721)に徳道上人によって、一本の楠の霊木から刻出された二体の観音像の一つとされ、開眼供養の導師を務めた行基によって衆生斎度の願を込められ海中に投じられたものが、相州長井浦に流れ着き鎌倉に遷座されたものと寺伝では伝えられている。尚、残りの一体が、奈良の長谷寺の本尊という。この本尊は、高さ9mをこす大きなものである。この寺伝が何処まで真実であるか不明だが、奈良の長谷寺と同じ位の十一面観音像がここ鎌倉の地にあるのは不思議でもある。ここでは、そんな寺伝を素直に信じてお祈りするのが良いのかもしれない。
拝観客の入口を通ると、方生池があり、季節夫々の花々で飾られている。その池の間の階段を上がり、鐘楼や阿弥陀堂、観音堂、宝物館、経蔵などが立ち並ぶ開けた地に至る。この台地から相模湾が一望できる。更に、裏手の斜面には、紫陽花の木々が植えられ、初夏には紫陽花の花々が眼を楽しませてくれる。シーズンには、多くの観光客で賑うようであり、明月院と共に鎌倉のアジサイ寺として有名だ。
十一面観音を祀る観音堂には、何時も老若男女で賑う
釈迦堂の切り通しを見る。左:杉本寺方向 右:名越方向から
六浦道沿いにある大蔵山 杉本寺(天台宗)は、天平6年(734)に光明皇后の命で、藤原房前と行基によって創建されたと伝えられる鎌倉最古の寺で、円仁(慈覚大師)が中興の祖と伝えられている。確かに茅葺の本堂は、その古さを実感させてくれるし、本堂への急な石段は、苔むしていて、何か心を落ち着かせてくれるようでもある(現在は、この石段を上るのは禁止されているが)。急な石段を上り、本堂に祀られる観世音菩薩を拝観した時、浄土への道を示された如くの意識になったのかもしれない。観世音菩薩は、内陣の中にあり、本堂内で拝観させてもらったが、暗い内陣の中だけに、その姿はハッキリしない。慈覚大師が文徳天皇の仁寿元年に、自ら海に浮かぶ霊木を彫刻し安置したと伝えられる平安後期の作。更に、内陣の東方には、鎌倉時代中期の作と見られる十一面観音が安置されていて、花山天皇の命で、源信(恵心僧都)が寛和元年に造ったと伝えられている。これら観音像と観音信仰から、「杉本の観音」とも呼ばれるようにもなった。現在の本堂は、延宝5年(1677)の建立で、寄棟造の茅葺屋根が際立つ。
本堂の裏山一帯は、杉本城址と云われているが、現在は立ち入りできない。平安末には和田義盛の父・杉本義宗の城であり、後の鎌倉幕府滅亡後の建武4年(1337)北畠顕家の鎌倉攻めに於いて、足利氏の代官・斯波家永が城に籠もり、足利直義・義詮を逃がし、300の兵もろとも討ち死にした。杉本寺の境内には,その時の供養塔が並んでいる。
鎌倉の地名由来として、藤原鎌足(中臣鎌足)が、常陸の国の鹿島神社に下向した途中、鎌倉の由井里に宿泊して、霊夢を見た。そこで所持していた武器である鎌を、鎌倉の松ケ岡に埋めた、あるいは松ケ岡にあった武器庫に収めたという故事からきているという説があったが、今では、地形からくる由来をとる説が有力となっている。即ち、地形全体が、「かま」に似ているからだとされている。「かま」は、山地をさし、「くら」は、谷をさすというものもあり、鎌倉の地形を考えると、肯ける説ではある。そんな地形の有利さを知るのは、武士が台頭し始めた平安中期以降であったかもしれない。平直方から源氏代々の地となった鎌倉は、三浦半島のつけ根に位置し、三浦半島、房総半島とを結ぶ戦略的な地であったとも云える。かっての古東海道は、今の東海道とは大きく違い、藤沢から鎌倉の地を通り、逗子の小坪から横須賀の走水をえて、房総半島へ海路で渡ったと云われる。その当時、武蔵の国は丘陵地帯の続く未開の地も多く、東京湾を北上したほうが便利であった事は推測がつく。日本武尊の東征伝説でも、東京湾を渡る伝説が残っているのもこうした事を裏付けているように思える。この古東海道は、海岸道路ともいうべきもので、北側の内陸に並行して通った道が、現在の金沢街道ー六浦道ーと考えられ、六浦道の西端が平直方の屋敷で、後に源氏へ伝領された館(現寿福寺)であり、巌堂から、六浦へのルートであった六浦道であった。この道は、現横浜市の金沢への道でもあり、塩の道とも呼ばれ、塩を売る商人達が往復していたようである。この古東海道と六浦道沿いには、古社寺が多く存在するのもこのような背景がある。六浦道と古東海道を南北に結ぶ道として、西側に現在の六地蔵と寿福寺を結ぶ東側武蔵大路と呼ばれたものであり、東側は、辻の薬師堂前から釈迦堂切通しを越え、六浦道に至る三浦道と呼ばれるものであったと考えられている。、
極楽寺の切通しを越えると鎌倉の町に入る。いわゆる古東海道の道筋となる。戦中に発見された古典「とはずがたり」は、二条という女性作者で、鎌倉時代後期に生まれ、前半生を京の宮廷で過した高位の公卿の娘であったという。後に出家し、東に下った。正応2年(1289)、鎌倉に入る為化粧坂をのぼり、くだったと記されているが、その前に江ノ島で一泊し、翌日、極楽寺という寺に詣でた。従って、坂越えしたのは、極楽寺の切通りであったはずだが、何故か方向の違う化粧坂にしている。語呂が良かったのか、化粧という文字を好いたのか、真相は不明である。
極楽寺切り通しをくだると、御霊神社への参道、そして長谷寺への道につながる。
長谷寺の表門、松の枝が優雅
斯波家永以下300の兵を供養すると伝わる供養塔
本堂前の苔むした急な石段は、古寺をしのばせてくれる
茅葺屋根の本堂(観音堂)
杉本寺から西に向かい岐れ道で北に向かった先が、「荏柄天神社」がある。縁起によれば、長冶元年(1104)8月に雷雨と共に天神画像が下り、里の人が社殿を建て、その画像をおさめ、イチョウの木を植え神木としたという。後の鎌倉幕府創立に伴い、大蔵幕府の鬼門にあたる事から守護神として崇拝された。九州の大宰府天満宮と京都の北野天満宮と並ぶ日本の三天神の一つに数えられている。明治の神仏分離までは、京都の東寺の末寺である一乗院(廃寺)が別当管理していたという。本殿は、元和8年(1622)鶴岡八幡宮造営時八幡宮の若宮社本殿を移築した鎌倉最古の木像建築でもある。これだけ由緒ある天神ではあるが、京都の北野天満宮に比べれば、その規模は決して大きくない。思うに、長冶年代に天神信仰が、この辺りにも浸透し、初めは、小さな社程度のものであったかもしれないが、大蔵幕府の鬼門という位置づけから、その後拡張されたのだろうが、山を背にしている事から、そうそうは大きく出来なかったものであろう。しかし、鎌倉幕府の庇護があった事から、日本の三天神という格式を持ったものかもしれない。むしろ、荏柄天神社の規模位の方が、落ち着いた感じであり、より身近な存在としてご利益もあるかのようにも思える。春3月には、境内の梅を楽しむ事が出来る。
荏柄天神社の拝殿
杉本城(杉本寺)から、名腰方面に向かう道が、旧三浦道であり、三浦一族が、開墾したと云われる釈迦堂切通しがある。元々、小さな自然のトンネルを開削したと考えれ、最初に開削したのが三浦一族であったのだろうと推測されている。これは、鎌倉の地を守護していく上で、三浦氏が杉本寺近辺に城郭を構え、鎌倉防衛拠点していた関係もあると考えられる。その後、対三浦一族への防衛拠点として切通しの整備をしていったのが北条氏であったと考えられ、現在残されているような壮大なトンネルになったと思われる。事実、六浦道側の釈迦堂ケ谷には、北条泰時が義時の一周忌の追善の為に建立した釈迦堂があったという。この三浦道を進めば、古東海道の辻の薬師堂や元八幡と交差している。
現在、この釈迦堂切通しは、崩壊の危険があるとの事で、通行止めになっているのが残念だ。
荏柄天神社への参道入り口には大きなビヤクシンの大木をくぐり、社への石段に続く。