朝倉一族。朝倉貞景の四男。朝倉孝景(宗淳)の弟。大叔父・朝倉宗滴の養子となる。通称は孫九郎・九郎左衛門尉。
大永7年(1527)10月、幕府中枢での政争に敗れた細川高国・足利義晴から朝倉氏への出兵要請があった際、孝景の命を受けて養父・宗滴と共に1万の軍勢を率いて出陣、義晴の供をして泉乗寺口で三好氏の四国勢を破って百五十余の首級を挙げたという(東山の合戦)。このときの奮戦ぶりを称えられ、高国や義晴より感状が発給されている。
享禄4年(1531)8月、大小一揆の乱(別称:享禄の錯乱)に際して宗滴と共に小一揆を支援して加賀国へ出陣し、手取川(湊川)で大一揆の軍勢を破った。
この享禄4年前後に敦賀郡司を宗滴より譲られ、永禄元年(1558)まで郡司としての活動が見られる。
弘治元年(1555)に宗滴が没したのちは、一族の長老格として朝倉義景をよく補佐した。
永禄4年(1561)、若狭国で若狭守護・武田義統の武将である粟屋勝久・逸見昌経らが義統に叛いて挙兵すると、景紀は義景の命を受けて義統を援けるために5月下旬に出陣、粟屋・逸見勢の砕導山(さいちやま)城などを攻めて鎮圧した。
永禄7年(1564)9月、嫡男の景垙が加賀国一向一揆討伐へ出陣する際の大将をめぐる争いに敗れて自害すると、その嫡男を伴って今立郡川島荘に隠居した。
元亀3年(1572)5月1日に没した。72歳。法吊は大機伊冊。
永禄5年(1562)8月に一乗谷で催された曲水宴の歌会に参会したほか、例年連歌会を興行していたといわれ、連歌・和歌の道にも通じた文武両道の将であった。