朝倉一族。朝倉景隆の子。通称は孫三郎。
天文24年(=弘治元年:1555)8月、加賀国の一向一揆と戦っていた朝倉宗滴が病に臥すと、父の景隆とともに総大将に任じられた。
元亀元年(1570)4月、織田信長が越前国敦賀郡に侵攻したとき(朝倉征伐:金ヶ崎の退き口)には1千5百余騎を率いて防戦にあたった。
同年6月、信長が朝倉氏の同盟者である浅井長政を攻めるために近江国に侵攻した際には、朝倉氏からの救援軍先鋒隊1万の大将として出陣しており、28日の姉川の合戦では三田村に布陣し、信長の加勢に参じた徳川家康の軍勢と戦った。
ついで同年9月には浅井長政とともに三好三人衆の出兵要請に応じて近江国坂本に侵攻、織田方の拠点であった宇佐山城を攻めて織田信治・森可成ら7百余人を討ち取っている(志賀の陣、宇佐山城の戦い)。
元亀3年(1572)7月、信長が浅井氏の近江国小谷城を目指して侵攻した際には朝倉義景に従って出陣している。
翌天正元年(1573)8月の刀禰坂の合戦(朝倉征伐:その2)においては奮戦し、逃れる義景の虎口を切り開く活躍を見せたという。
朝倉氏の滅亡後は信長に降伏し、姓を安居(あご)と改め、本領を安堵された。
翌天正2年(1574)に越前国で一向一揆が蜂起するとこれに降伏したが、天正3年(1575)8月に信長が越前国の一向一揆を平定した際に自害した。一説には、石山本願寺から派遣された一揆の大将・下間頼照らの首級を持参して再度の降伏を願ったが許されず、切腹したという。