宇喜多家臣。幼名を岩法師、通称を次郎四郎・重助。
天文13年(1544)、未だ岩法師と名乗っていた13歳のときより浦上宗景麾下で備前国邑久郡砥石山城主・浮田大和守に仕えた。その翌年、宇喜多直家との抗争での奮戦ぶりを浮田大和守に賞賛され、元服を許されたという。
砥石山城が陥落したのちの天文18年(1549)に宇喜多直家に召し抱えられて与力30人、知行2百石を与えられた。
若年時より剛勇の士として知られ、永禄8年(1565)5月の美作国三星城の戦い、翌年の三村家親遺臣との戦い、永禄10年(1567)の明禅寺合戦に功労があった。
他にも天正9年(1581)の毛利氏との八浜の合戦や天正15年(1587)の九州征伐に従軍し、とくに九州征伐中に高城を攻めた際、鉄砲で右の股を撃ち抜かれるという重傷を負ったにも関わらず「弾は中っていない」と元気な素振りを見せて味方の士気を鼓舞し、さらに進軍してからも再び銃弾を受けたが郎党らの援けもあって生還した。しかし、この傷がもとで手足が不自由となって邑久郡北地村に隠退した。
慶長13年(1608)に病死した。77歳。この病没の直前に職家は子たちに「侍たるもの決して臆病であってはならぬ。自分は戦場で浅手や深手を負うこと度々で、当然討死するであろうと思っていたが、運が良かったのでこの年まで生き、病死することになった。生きるも死ぬも運次第、臆病になる必要がないことはこの自分を見ても明らかであろう」と遺言したという。