天正7年(1579)、備前国と播磨国・美作国の一部を領国とする戦国大名・宇喜多氏は織田信長に従い、その配下で中国地方の経略を推し進めていた羽柴秀吉の指揮下に入った。
その翌年に別所長治を滅ぼし(三木城の戦い)、播磨国を制圧した秀吉は備前国までを勢力範囲として掌握することとなり、中国地方の雄・毛利氏との直接対決に向けた動きを加速させる。秀吉は天正9年(1581)4月、備前国南西端の児島半島をその橋頭堡として固め、備中国への侵攻路を開くよう宇喜多氏に命じたのである。
一方の毛利氏においても宇喜多氏を牽制するため、児島半島への侵出を企てた。この児島攻めの大将に任じられた毛利氏の一門衆・穂井田元清は八浜の西にまで進み、麦飯(むぎい)山城を拠点として宇喜多氏の本城・備前国岡山城を窺う構えを見せる。
この情報を得た宇喜多勢は迎撃のために出陣した宇喜多基家・戸川秀安・岡利勝らの軍勢が八浜の手前に布陣し、相対することとなったのである。
そして8月22日(一説には24日)、宇喜多勢が麦飯山城近くに馬草を刈りに行って小競り合いが起こったことをきっかけとして両勢ともに人数を繰り出し、大崎村の柳畑という浜辺で本格的な合戦となった。
形勢は布陣を整えて待ち構えていた毛利方が優勢だったことに加え、毛利勢が村上八郎右衛門の率いる水軍を使って宇喜多勢の側面を衝いて攻めかかった。宇喜多基家はこの状況を不利と見て危ぶみ、軍勢をまとめて退かせるために馬に乗って指揮を執ったが、そのときに鉄砲の弾に撃ち抜かれて(一説には流れ弾に中ったとも)戦死したのである。
大将を討ち取って意気の上がる毛利勢は狼狽する宇喜多勢に攻めかかったため、宇喜多勢は敗走。基家の死を知った戸川秀安も討死を遂げる覚悟で馬首をめぐらし、敵陣に馳せ向かったのである。
この秀安の決死の攻撃に続いて能勢又五郎・馬場職家・岸本惣次郎・小森三郎右衛門・粟井三郎兵衛が続いて斬り込んだため、激しい撤退戦となった。そこへ駆けつけた国富源左衛門・宍甘太郎兵衛も加わると戦況は持ち直し、さらには一度敗走した兵らも駆けつけて応戦したため、ついには追撃してきた毛利勢を防ぎ止めたばかりか、多数の兵を討ち取って追い崩すという逆転勝利を得たのである。
のち、この合戦で殿軍を勤めて武功のあった7人を「八浜七本槍」と称したという。
因みに一番手柄は能勢、二番は国富、三番は宍甘、四番に馬場という順序であった。