戸川秀安(とがわ・ひでやす) 1533?〜1592?

宇喜多氏の重臣。門田定安の子。通称は平介・平右衛門。従五位下・肥後守。
父祖の代より宇喜多氏に仕えていたが、秀安の父・定安は天文3年(1534)6月に宇喜多能家が島村宗政(観阿弥)に滅ぼされるに際して備後国門田村に逃れたことから門田を姓として称し、この父を幼少時に亡くしたのちは美作国に移り、叔父(母の姉婿)の富川入道のもとで養育された。
天文12年(1543)に宇喜多直家が備前国天神山城主・浦上宗景に仕えて備前国乙子城主となると、母が直家の弟・忠家の乳母となった縁故から秀安も直家に近侍し、永禄9年(1566)の明禅寺合戦、永禄10年(1567)の芝場城(別称:撫川城)の戦い、天正6年(1578)の上月城の戦い、天正9年(1581)の八浜の合戦など数多の合戦に臨む。とくに八浜の合戦においては、決死の攻撃で軍勢を奮い立たせ、退勢を覆して勝利に導いた。
宇喜多第一の重臣と称され、岡利勝・長船貞親と共に直家の立身を援けて宇喜多氏の勢力伸張に大きく貢献し、天正2年(1574)から翌年にかけての備中大兵乱ののちは備前国児島・常山の両城を守り、知行高は2万5千余石で明石氏に次ぐ大身であった。
天正10年(1582)に子・逵安に家督を譲り、隠居して自任斎枋授友林と号す。
天正20年(=文禄元年:1592)9月6日、常山城にて死去。60歳。生年を天文7年(1538)、没年を慶長2年(1597)や慶長8年(1603)とする異説がある。