宇喜多忠家(うきた・ただいえ) 1536?〜1609

宇喜多興家の三男。母は阿部善定の娘で宇喜多直家の異母弟、宇喜多春家の同母弟にあたる。通称は七郎兵衛。左京亮・出羽守。出家号は安心(あんじん)。
天文18年(1549)に兄・直家が浦上宗景より備前国上道郡奈良部城(別称:新庄山城)を与えられて移ると、それまで本拠としていた邑久郡乙子城を預けられた。また、永禄11年(1568)の金川城の攻略後は金川城を、天正元年(1573)に直家が本拠を岡山城に移したのちにはそれまでの本拠であった沼城(別称:亀山城)、さらには富山城といった要地の城を任されるなど、直家の片腕となって宇喜多氏の勢力伸張に尽力している。
軍事面においても数々の合戦に従軍して活躍し、永禄10年(1567)の明禅寺合戦においては三村勢の右翼軍を壊滅させるなどの武功を挙げ、天正6年(1578)の播磨国上月城の戦いや同年8月の備前国辛川の合戦においては病に臥していた直家に代わって出陣するなど、宇喜多氏の参謀ともいうべき地位に在った。
天正5年(1577)の浦上宗景の没落後は備前国東部の佐伯地方で1万2千石を知行する。
天正9年(1581)に直家が没したのちは、直家の遺児・宇喜多秀家をよく補佐して家政を執った。翌天正10年(1582)の備中国高松城攻めの際には秀家の名代として1万余の軍勢を率いて出陣している。
文禄の役においては宇喜多隊の先手大将として主力部隊を率いて渡海し、現地でも秀家を補佐して戦功を挙げた。
羽柴秀吉と親しく、秀吉が慶長3年(1598)に没した際には遺物・吉次の刀を受領している。
慶長年間初期に宇喜多家中で信仰問題に端を発する内訌が起こった際には、戸川逵安・花房正成らと結託して、秀家やその寵臣・長船綱直に反発。一時は武力衝突の寸前にまで緊張が高まったが、徳川家康大谷吉継の仲裁を得て落着した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては徳川家康に従って会津上杉征伐に従軍。のち、主筋の秀家は西軍の大将格に推戴されるが忠家はそのまま東軍に属し、伊勢国安濃津城主・富田信高と縁戚であった関係から安濃津城の防衛に赴いた。
戦後、家康の命を受けて戸川逵安・花房正成・花房職之と共に岡山城を接収。この後の論功行賞における忠家への恩賞は不詳であるが、子・坂崎直盛が石見国にて所領を与えられている。
慶長14年(1609)2月15日没。法名は了心院殿道益日得大居士。
備前法華を信仰し、岡山県和気郡佐伯町の太王山本久寺は忠家の建立によるものである。