宇喜多忠家の二男。宇喜多秀家とは従兄弟の関係にあたる。名を直行・詮家・重家・信顕・成正とも。左京亮・対馬守・出羽守。
秀家に属し、備前国富山城主として2万4千余石を領したが、慶長4年(1599)10月に戸川逵安・花房正成らの重臣と共に秀家と抗争を起こし、主家を立ち退いて徳川家康に転仕した。
慶長5年(1600)11月、関ヶ原の役での功をもって石見国浜田で新封2万石を受ける。このときに姓を坂崎に改めたという。のち、石見国津和野4万石の領主となった。
慶長10年(1605)、自家の罪人を匿ったとして姻族の伊勢国安濃津城主・富田信高と係争するに至るが、江戸幕府に執拗に訴えた結果、富田氏は慶長18年(1613)に改易となっている。
慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣で、家康の孫娘で豊臣秀頼に嫁いでいた千姫を救い出したら(直盛に)嫁がせるという約束を受け、見事にこれを果たしたと伝わるが、真偽は不明。
家康死後の元和2年(1616)9月、本多忠刻に再嫁する千姫を奪い取ろうとしたが発覚、自刃した。家臣に殺されたともいう。