細川持賢(ほそかわ・もちかた) 1403〜1468

細川氏京兆家(管領家)の当主・細川満元の三男。幕府管領を務めた細川持之の弟。通称は弥九郎。右馬頭。
嘉吉元年(1441)6月、嘉吉の乱で没落した赤松満祐の所領であった摂津国中島郡の分郡守護となる。
嘉吉2年(1442)8月に京兆家の当主であった兄・持之が没し、家督はその嫡子の細川勝元が継承したが、未だ13歳の若年であったため持賢が後見するというかたちで京兆家を実質的に采配した。
嘉吉3年(1443)、入道して道賢と号す。
文正2年(=応仁元年:1467)1月、上御霊社の戦いを緒戦として応仁の乱が勃発すると、東軍の総帥となった勝元を補佐したが、応仁2年(1468)10月7日に没した。
一国の守護に就くことはなかったが、一族の間に重んぜられ、右馬頭を官途とする細川典厩家の初代となる。
詩歌を愛好し、和漢連句の会などを催した。