薩摩国島津氏の重臣。伊集院忠倉の子。通称は源太。初名を忠金。掃部助・右衛門大夫。入道して幸侃(こうかん)と号す。
永禄9年(1566)頃より島津氏の老中(家老)職となる。
主家・島津氏の領国拡張に伴い、天正8年(1580)頃より大隅国高山・鹿屋・日向国飫肥南郷の地頭となる。
天正10年(1582)から肥後国八代に居住して肥後・筑後国の制圧に従事した。
天正11年(1583)に肥後国堅志田城の阿蘇氏を攻め、天正12年(1588)には肥前国五箇浦を攻撃。天正14年(1586)には筑前国に出陣して勝尾城主・筑紫広門を降した。
文芸の嗜みに造詣があり、歌道の縁で細川藤孝を通して羽柴秀吉を知る。天正15年(1587)の九州征伐の際、4月の日向国根白坂の合戦で秀吉の征伐軍と戦うが敗れ、島津家久とともに単独講和に応じ、主家にも征伐軍の強大さを説いて降伏を勧めた。このとき、自らが人質となって羽柴秀長の陣に赴いている。
この九州征伐で島津氏が同年5月8日に降伏し、当主の島津義久が出家するに従って自身も出家し、幸侃と号した。
秀吉の覚えめでたく、九州征伐ののちに島津宗家と対等の処遇を受け、大隅国肝付郡に2万1千石の所領を与えられている。また文禄4年(1595)6月末、太閤検地の算定をもとに行われた知行割では5万9千石の加増転封の沙汰があり、日向国都城8万石となって勢威を張った。
忠棟は島津家臣でありながらも秀吉から知行を与えられ、秀吉の意向を受けて島津宗家の領国経営に介入するという半独立の大名であったために島津家中から反発を買い、慶長3年(1598)8月の秀吉死没後に中央政権に対する不満が鬱積するようになると、中央に近い忠棟の立場も揺らぎはじめた。
忠棟の意図するところは島津氏の大名権力強化と領国統治体制の立て直しであったというが、中央政権の威を駆った感もあったために島津宗家との対立を招くところとなり、畿内に参勤していた慶長4年(1599)3月9日、島津忠恒(のちに家久と改名)に伏見屋敷に呼び出され、手討ちにされた。主家に叛意を持っていたことがその理由とされる。
この処遇に憤った忠棟の嫡男・伊集院忠真は、都城に拠って叛乱を起こすに至った(庄内の乱)。