木戸忠朝(きど・ただとも) ?〜1574?

武蔵国の国人領主。木戸範実(正吉)の子。広田直繁とは兄弟(長幼の順は不明)。伊豆守。武蔵国羽生城将。
はじめ河田谷右衛門大夫忠朝と称していたが、永禄9年(1566)までには木戸姓を称している。
天文5年(1536)5月、広田直繁との両名で小松神社に三宝荒神の御正体を寄進し、天文13年(1544)に領内の武蔵国上岩瀬に岩松寺を開基した。
永禄3年(1560)秋から翌年春にかけて越後国の上杉謙信が、関東地方の諸領主を圧迫していた相模国の北条氏康を討伐するために関東に侵攻した際(越山:その1)には直繁とともに上杉氏に従属し、所領を安堵されている。
永禄4年(1561)、謙信に背いた武蔵国忍城主・成田長泰への抑えとして、皿尾城の守将に任じられる。
永禄12年(1569)に上杉氏と北条氏の間で越相同盟が結ばれると、直繁とともに謙信の意を受けて上杉一族で武蔵国深谷城主の上杉憲盛を上杉方に帰参させるのに項があった。
永禄13年(=元亀元年:1570)1月、上杉謙信が下野国唐沢山城主の佐野昌綱を攻めた際(越山:その9)にも直繁とともに上杉方として参陣し、下野国藤岡郷を宛行われている。同年2月末、謙信が長尾顕長から上野国館林城を接収して広田直繁に与え、直繁がこれに移ると忠朝が羽生城主になったようである。
元亀2年(1571)末頃に越相同盟が破綻して再び上杉氏と北条氏が敵対するようになったが、忠朝は上杉方に留まったため、元亀3年(1572)8月に北条勢から羽生城を激しく攻め立てられた。
しかし元亀4年(=天正元年:1573)4月頃までに深谷城の上杉憲盛が北条氏に降ったことで、羽生城が武蔵国唯一の上杉方勢力となると北条勢からの圧迫も増し、天正2年(1574)3月には上野・武蔵国境に上杉軍の来援を迎えるも、利根川が増水したため援軍は渡河できず、救援は得られなかった(越山:その12)。そしてこの年の閏11月、上杉謙信は羽生城の維持を困難と見て自落させたのである。
この頃を境として忠朝の名は史料に現れなくなる。伝承などでは、年紀や人物比定に誤りと思われる箇所があるものの、落城に際して子息とともに戦死あるいは自害したとするものが複数ある。法名は賢哲。