相模国小田原城を本拠として関東地方に勢力を広げる北条氏康・氏政父子と、北条氏からの圧迫を受けた諸領主より救援要請を受けた越後国の上杉謙信の抗争は、北条氏優勢で進んでいた。とくに越後国から関東平野への足掛かりとなる上野国において、上杉氏の勢力圏は永禄10年(1567)までには沼田・桐生周辺のみとなり、厩橋を迂回して関東平野へ出るための拠点として重要視された下野国の佐野にも、北条氏の攻勢が及ぶようになったのである(越山:その8)。
しかし永禄11年(1568)、上杉氏と北条氏の抗争に大きな局面の転換が訪れる。
北条氏は甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏と「甲駿相三国同盟」と呼ばれる相互同盟を結んでおり、とくに武田信玄とは上野国の戦線において連携、あるいは波状的に上杉方勢力を攻撃し、その所領を蚕食した。しかし信玄は今川氏当主の今川氏真を見限って三河国の徳川家康と結び、永禄11年12月より今川領に侵攻を開始したのである(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。
北条氏は今川氏との同盟を堅持して駿河国へと援軍を派遣し、翌永禄12年(1569)4月下旬には武田軍を撤退させることに成功したが、これまで友軍であった武田氏と敵対することとなり、戦略の見直しを迫られることになった結果、6月に上杉氏との同盟(越相同盟)が結ばれることになったのである。
武田勢は駿河国の興津・久能(久野)に兵を残して永禄12年4月末に一時帰国するも、まもなく駿河・伊豆方面へと再出兵し、ついで武蔵国方面から相模国を窺う動きを見せるなどしたため、北条氏は防戦一方となる。このため北条氏は上杉氏に、武田勢を牽制するためにも信濃や西上野への出馬を求めたが、上杉氏はこれに応じなかったばかりか、8月下旬頃になると越中国へと出陣して金山城に椎名康胤を攻めている。この隙に武田氏は武蔵国へと出陣し、9月に鉢形城や滝山城を牽制しつつ軍を進め、10月には北条氏の本拠である小田原城を包囲するに至ったが、まもなく軍勢を退かせ、その帰路で北条勢と戦っている(三増峠の合戦)。
帰国した武田信玄は休む間もなく11月5日に甲府を出陣し、9日に信濃国の諏訪社に願文を捧げて駿河・伊豆両国の併呑を祈願し、22日に富士口から駿河国へと侵攻した(武田信玄の駿河国侵攻戦:その2)。一方の上杉謙信は10月末に越中国から居城の越後国春日山城へと帰ったが、間もなく越山して11月20日に上野国沼田に着陣している。
この謙信の越山を知った北条氏は慰労と感謝の意を伝える書状を沼田へと送っているが、上杉軍は沼田に留まって動かず、諸氏に参陣を呼びかけるばかりであった。この間にも武田軍は蒲原城を落とし(蒲原城の戦い)、駿府も再占領した。
そして年が明けて永禄13年(=元亀元年:1570)になると、上杉謙信が動く。向かった先は下野国の佐野であった。唐沢山城主の佐野昌綱が叛いたため、この討伐に向かったのである。
ただこの佐野昌綱、謙信から離反してどうしようとしていたのかが不詳である。上杉氏の傘下から脱して自立しようとしたのか、北条方へ鞍替えしようとのつもりだったのか、あるいは武田信玄に唆されて叛意を募らせたのか、それがよくわからないのである。
いずれにしても謙信が佐野へ向かったという事実は、武田勢を牽制するために信濃や西上野への進軍を期待していた北条氏にとっては大きな衝撃となったことであろう。北条氏重臣の遠山康光は謙信側近の山吉豊守に宛てて書状を送って謙信の行動を非難し、北条氏政は早く佐野の件を落着させて武田領に向かってほしいためか、佐野昌綱に謙信に従うように勧告している。
それでも2月2日付で謙信が下平右近允らに佐野飯盛山での戦功を賞する感状を与えていることなどからしても開戦は免れ得なかったことがわかり、上杉勢は2月末頃に佐野氏を降して沼田へと戻ったようである。
この上杉謙信の佐野在陣中、2月18日付の北条氏康・氏政父子の起請文が届けられた。その内容は前年に締結された越相同盟の交渉において、その一項にあった「証人(人質)として氏政二男の国増丸を謙信の養子とする」ことについて、履行する旨が記されていたのである。ただし、養子とするのは国増丸ではなく氏政弟の三郎(のちの上杉景虎)に変更されている。
謙信がこれを承知する旨の書状を3月5日に送ると、北条方からはすぐにその履行に向けて動きがあり、13日には三郎の付家老となる遠山康光が沼田城に赴いている。三郎が小田原を出立したのは4月5日で、10日に沼田に到着、翌11日に謙信と対面した。これを受けて謙信は三郎らとともに越後に帰国したのである。
帰国後間もなくの4月25日、春日山城において三郎を養子とする祝言が執り行われ、併せて謙信の姪(長尾政景と謙信の姉の間に生まれた娘)を妻とし、謙信の初名である「景虎」の名をも与えられたのである。