越後国の上杉謙信は、相模国の北条氏康の圧迫を受けて逃れてきた関東管領・上杉憲政や諸領主の要請を容れ、北条氏を討伐するために永禄3年(1560)以来、「越山」と称される関東地方への出兵を繰り返していた。
しかしこの両者は永禄12年(1569)6月に至って甲斐国の武田信玄に対抗するために提携し、越相同盟が結ばれる。これによって上杉氏の友軍であった諸領主は北条氏からの圧迫を免れることとなったが、元亀2年(1571)10月に氏康が没して親武田派の氏政があとを継ぐと、同年末には越相同盟が破棄されるとともに北条氏と武田氏の同盟が復活したのである。
謙信が元亀3年(1572)4月頃に11度目の越山より帰国の途につくと早速に北条氏が上野国に出兵しているが、これは合戦にまでは至らなかったようである。しかし5月になると武田氏が本願寺に要請して加賀国の一向一揆を動かして謙信が懸念している北陸戦線の越中国に侵攻させ(日宮城の戦い)、その後の7月下旬には北条勢が上野国の石倉城に圧力をかけており、8月に至って謙信が越中国へと出陣すると信玄が10月に西上作戦に踏み切るなど、武田・北条同盟は謙信を翻弄し、有用に機能していた。
その後も北条氏の出兵は繰り返され、武蔵国での数少ない上杉方勢力である羽生城や深谷城が脅かされたが、謙信は越中国に釘づけにされて関東へ向かうことは出来なかったが、元亀4年(=天正元年:1573)1月に至ってようやく加賀・越中の一向一揆と和議が結ばれ、その後にひと悶着あったものの、4月下旬に至って越後国に帰国した。しかし翌5月には、越中国の牢人に蜂起の兆しが見えており、越後・越中国境の沿岸地域の警備の強化を命じるなど、神経を尖らせている。
そして8月10日には再び越中国に出陣したが、その隙を衝くかのように北条勢が上野国厩橋へ向けて出陣したとの報を得て21日に帰国するも、9月13日には再び越中へと出陣し、12月初旬に帰国している。
そして天正2年(1574)1月下旬に関東出陣の陣ぶれを出し、まもなく関東に向けて出陣したとみられ、2月5日には上野国沼田まで進んでいる。これに先駆けて上杉方先手軍勢の後藤勝元らが北条方の上野国新田金山城主・由良成繁らと戦っていた。
上杉勢は3月10日までには由良方の赤堀・善・山上・女淵などの城を攻略、さらには桐生の深沢城を攻撃し、13日には阿久沢兄弟が従属、御覧田城も攻略している。
26日、謙信は桐生の陣から由良氏の本拠である金山城を攻めるべく新田藤阿久に布陣したが、北条氏政が武蔵国の羽生近辺に出陣したため、謙信も金山城攻めを中止して館林大輪に陣を移し、利根川を挟んで北条勢と対峙することになった。
しかし利根川の増水で両軍ともに渡河することができず、そうこうするうちに双方とも軍勢を引くことになり、5月下旬に帰国した。