北畠具教(きたばたけ・とものり) 1528〜1576

伊勢国司北畠氏第8代当主。父は北畠晴具、母は細川高国の娘。正三位・権中納言。伊勢国多芸城主であったことから多芸御所とも呼ばれた。
弓馬・兵法などに優れ、兵法家・塚原卜伝上泉信綱から剣術の指南を受けた剣豪大名でもある。領国内にも兵法を奨励し、北畠氏の勢力を大きく伸張させた。
天文年間より伊勢国安濃郡の長野(工藤)氏と戦い、永禄元年(1558)には和議を結んで二男・具藤を長野藤定の養子とした。
北伊勢の国人領主の関氏とも戦ったが、永禄10年(1567)より始まる織田信長の伊勢国侵攻に備えて多芸を出て抗戦した。永禄11年(1568)には織田勢力の神戸城を攻めてこれを抜くなど、織田勢力の伊勢侵入に激しく抵抗したが、弟・木造具政が信長に通じるなどしたため戦況は思わしくなく、永禄12年(1569)10月に屈服して講和を結び、元亀元年(1570)に多気郡三瀬谷の古城に移って出家した。
このときの講和条件で信長の二男・茶筅丸(のちの織田信雄)を養子とし、天正3年(1575)に信雄に北畠氏の家督と国司の座を譲った。
しかし翌天正4年(1576)11月25日、病床にあるときに、信雄(あるいは信長)の意を受けた旧臣に襲われ、自刃した。49歳。