河野通盛(こうの・みちもり) ?〜1364

伊予国の豪族。河野通有の七男。母は河野通久の女(河野通時の女とも)。通称は九郎左衛門。別称を通治。対馬守・伊予守。通久の子・通盛とは同名異人。
父・通有の遺志で家督を継ぐ。
元弘の乱に際しては、かつて父祖が受けた恩義を重んじて鎌倉幕府方に属し、正慶2:元弘3年(1333)3月には京都の六波羅探題を警固して赤松則村(円心)の軍勢と戦って一度は大打撃を与えたが、六波羅探題が陥落すると鎌倉に敗走したという。
鎌倉幕府が滅亡し、覇権を握った足利尊氏とは元弘の乱で敵対する陣営であった経緯から新政権下での復権を断念し、時宗の藤沢道場の上人を通じて建長寺の僧・南山士雲のもとで出家して善恵と号したが、のちに南山の斡旋で尊氏に属し、尊氏が建武政権から離脱して武家(足利尊氏方)方と宮方(後醍醐天皇方)の抗争が勃発した際には、武家方として伊予国に在って反抗勢力や宮方勢力の鎮定に尽した。また建武3:延元元年(1336)5月の湊川の合戦や、その後の京都制圧戦でも奮戦し、それらの勲功で本領と河野氏惣領職を安堵された。
また、この年の6月には伊予守護に就任しており、建武5(=暦応元):延元3年(1338)6月までは在職が確認できる。
時期は不詳であるが、この間に道後に湯築城を築き、温泉郡河野郷に善応寺を営む。
観応2:正平6年(1351)頃に再び伊予守護に任じられたが、文和3:正平9年(1354)に細川頼之が幕命を受けて足利直冬勢力の征討のため伊予国に出陣するにあたり、伊予守護職は頼之に移行したようである。
貞治2:正平18年(1363)2月、家督を嫡男・通朝に譲って引退し、善応寺に住す。しかし、前年7月の細川頼之と細川清氏の抗争(白峰の合戦)に際して援兵を送らなかったことから貞治3:正平19年(1364)9月より頼之の伊予国侵攻に遭うこととなり、通朝は11月6日に自刃、通盛もあとを追うように11月26日に病死した。法号は日昭恵公大禅定門。善応寺に葬る。