越後国の国人領主。揚北衆で、蒲原郡奥山荘北条(黒川)の領主。通称は四郎あるいは四郎二郎。右兵衛尉。
享禄3年(1530)10月に始まる越後享禄・天文の乱に際して当初は長尾為景方に属しており、翌享禄4年(1531)初頭には『越後国人衆軍陣壁書』に名を連ねているが、天文4年(1535)8月までには上条定憲方に転じている。
この越後・享禄天文の乱は「長尾為景と為景派諸領主」と「反為景派諸領主」の対立が一国規模の内乱に拡大したものであるが、天文7年(1538)頃には沈静化するも、続いて『伊達時宗丸入嗣問題』が起こると反対派に属し、推進派で所領を接する中条藤資と抗争した。
さらにはこの伊達時宗丸入嗣問題は陸奥国の伊達家中でも伊達稙宗・晴宗父子の分裂抗争(伊達氏天文の乱)の引き金となり、近接する揚北衆もこの影響に晒されることとなった。中条氏が稙宗方であったためか、黒川氏は晴宗方に与したようである。
天正3年(1575)の『上杉氏軍役帳』によれば、総軍役179人の負担を課せられている。
天正6年(1578)3月の上杉謙信没後に勃発した御館の乱に際しては上杉景虎方として活動し、同年6月頃より鳥坂城に拠って抗戦したが、天正7年(1579)3月頃に上杉景勝優勢で大勢が決すると、陸奥国の伊達輝宗に、景勝からの攻撃を受けた場合に備えて援助を願って承諾を得た。4月下旬頃に鳥坂城が陥落させられると伊達氏を頼って陸奥国へと落ち延びたようであるが、のちに輝宗の赦免依頼もあって上杉家中への復帰を許されている。