真田信綱(さなだ・のぶつな) 1537〜1575

武田家臣。真田幸隆の長男。真田昌幸の兄。通称は源太左衛門。
剛将として知られ、武田信玄勝頼父子の2代に仕えた。信濃衆随一の武将といわれ、この信綱を武田二十四将のひとりに挙げる史料もある。
父・幸隆と共に信濃国北部に在り、信濃先方衆として越後国の上杉謙信に対抗した。
永禄4年(1561)の川中島の合戦:第4回をはじめ上野国岩櫃城、岳山城の攻略戦に参加して剛勇を謳われた。
武田氏が信濃国のほぼ全域を支配下に収めたのち、幸隆は上野国の経略に取り掛かるが、信綱は引き続き信濃国小県郡に在って北信濃守衛の任にあたり、高坂昌信らと共に上杉氏の侵攻に備えている。
天正2年(1574)5月、幸隆の病死により家督を継ぎ、信濃先方衆の旗頭となったが、翌年(1575)5月の長篠の合戦で弟の真田昌輝と共に壮烈な討死を遂げた。39歳。信綱寺に葬られた。