佐竹義久(さたけ・よしひさ) 1554?〜1601

佐竹一族。佐竹氏の有力分家である佐竹東家・佐竹義堅の二男。佐竹東家の始祖である佐竹政義の孫にあたる。従五位下・中務大輔。武熊城主。
佐竹東家は兄の義喬が相続したため、義久は酒出氏を継承していたが、元亀2年(1571)頃に実子のなかった義喬の名跡を相続して佐竹東家の当主となった。このため、東義久とも称される。
佐竹氏の惣領である佐竹義重義宣の2代に亘って仕え、各地に奮戦した。天正年間初期には陸奥国白河郡域での戦線の指揮も執っており、天正12年(1584)の下野国沼尻の合戦においては1千挺以上を擁した鉄砲隊を率いて参陣している。
とくに外交政策で優れた手腕を発揮し、中央政権との折衝においては天正11年(1583)頃より羽柴秀吉石田三成らと親交を持ち、以後の佐竹氏の外交戦略において大きな役割を果たすこととなり、天正18年(1590)の小田原征伐後の所領再編においては鹿島郡を与えられた。
天正19年(1591)に佐竹氏が本拠を常陸国水戸に移すにあたり、水戸城の普請奉行を務めた。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役には義宣に随行して肥前国名護屋に駐留していたが、文禄2年(1593)6月に佐竹勢の先陣として渡海し、渡海した部隊の総指揮を任されている。渡海後は小西行長の軍勢に属し、熊川城の普請にあたった。
文禄4年(1595)に確定した太閤検地の知行割において、秀吉から6万石の所領を与えられたほか、太閤蔵入地の代官徳分として1千石もあり、佐竹氏重臣でありながら豊臣大名に列した。これは石高こそ違うが上杉氏の直江兼続、毛利氏の小早川隆景に相当する待遇といえる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては徳川家康と折衝し、家康から「家康、中務(義久)の在るうちは国替はしない」という内諾を得ている。しかし佐竹氏当主・義宣が徳川方(東軍)への参陣を明確に示さなかったため佐竹氏は敵対した勢力として扱われることとなり、慶長6年(1601)6月にはその陳情のために上洛している。
同年11月28日に没した。48歳か。佐竹氏の出羽国秋田への左遷が決まったのは、その翌年のことであった。