斯波義銀(しば・よしかね) 1540〜1600

尾張守護・斯波義統の嫡男。幼名は岩龍丸。治部大輔。三松軒。のちには津川義近と名乗る。
天文23年(1554)7月12日に川狩りに出掛けた際、父・義統が尾張守護代の織田信友(別称を広信)とその重臣・坂井大膳亮らの襲撃を受けて殺害されると織田信長を頼り、その後ろ盾によって尾張国主に擁立されたが、永禄4年(1561)に三河国の吉良氏や石橋氏と結んで信長に敵対したために追放された。
この後は出家して三松軒と号して伊勢・河内国を流浪し、畠山高政の庇護を受けるとともに、高政を通じて信長に謝して許された。この信長との和解の時期は不詳であるが、元亀2年(1571)前後に津川義近と改名しており、これが織田氏への帰参に伴うものとも推察される。また、信長との和解が成った際に知行地を与えられたともされているが、信長直属の家臣としての活動は見えず、織田信雄に仕えて伊勢国松ヶ島城主となっていた弟の津川義冬(別称を雄光)のもとに身を寄せている。
その義冬が羽柴秀吉への内通を疑われて天正12年(1584)3月に誅殺されると、松ヶ島城に拠って信雄に反抗し、信雄から派遣された木造具康・滝川雄利らの攻撃を受けると支えきれずに開城して退去し、その後は羽柴秀吉に仕えて御伽衆として遇された。
しかし天正18年(1590)の小田原征伐において、独断で和議と北条氏政氏直父子の助命を取り扱ったため秀吉から改易に処され、陸奥国会津の蒲生氏郷を頼ったようであるが、天正20年(=文禄元年:1592)までには許されて帰参したようであり、同年の文禄の役に際しては御伽衆として本営の肥前国名護屋に赴いている。
慶長5年(1600)8月16日に没した。享年61。