斯波義統(しば・よしむね) 1513?〜1554?

尾張守護・斯波義達の子。名を義元・義遠とも。左兵衛佐・治部大輔。
永正14年(1517)8月、父・義達の失脚を受けて斯波氏家督と尾張守護職を相続し、尾張国下4郡の守護代・織田達勝(織田大和守家)に擁せられて尾張国清洲城に拠る。
達勝の死後、その養子であった織田信友(彦五郎、別称を広信)が守護代となると、その専横を嫌って織田信長に内通したが、これが発覚したため、天文23年(1554)7月12日(一説には天文22年:1553)、子の斯波義銀が家臣とともに川狩りに出て城中が手薄になった隙を衝かれ、信友の家臣・坂井大膳亮に殺害された。