島津歳久(しまづ・としひさ) 1537〜1592

日置島津家の祖。島津貴久の三男。島津義久義弘の弟。島津家久の兄。
他の兄弟同様に武略に優れ、島津氏の九州制圧に大きく貢献し、薩摩国祁答院領主として12ヶ村、1万8千石を領した。
天正15年(1587)の九州征伐において、兄で島津氏当主の義久は5月8日に羽柴秀吉に降伏したが、歳久は祁答院を死守して徹底抗戦の姿勢を示した。のちに諭されて降伏するが、秀吉の駕籠に弓を射掛け、降伏した後も病気を理由として秀吉の伺候を拒否するなど、反抗を続けた。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役にも病身として出陣せず、さらには同年6月に島津家臣・梅北国兼が反乱を起こした際(梅北国兼一揆)、同調者の中に歳久の家臣が多くいたことや、それまでの反抗的な姿勢が秀吉の憤慨を買うところとなり、秀吉は義久に歳久の誅伐を命じた。
これを知らされた歳久は、居城・宮之城で自刃しようと思って鹿児島を出立したが、義久の軍勢から追討を受け、7月18日に龍ヶ水で自害した。56歳。
鹿児島市瀧ヶ水の平松神社は、この歳久と殉死者を弔うために同地に建立された心岳寺が神社になったものである。