菅屋長頼(すがや・ながより) ?〜1582

織田家臣。織田造酒丞の子。通称は九右衛門。別称を長行。
馬廻として織田信長に側近く仕え、信長の意向を伝える使者・検使や各種の奉行などの役目を権仕した。信長からは「御長」と称されて特に重く用いられたようである。
奉行としては天正7年(1579)5月の安土宗論を司り、天正8年(1580)閏3月に安土の伴天連屋敷地造営の奉行を勤め、天正9年(1581)1月には、同月15日に行われることになっていた安土城下での左義長の準備として、馬場の普請を行っている。翌天正10年(1582)同日の左義長には、自身も参加している。
軍事面では大きな武功は見られないが、永禄12年(1569)秋に伊勢国の北畠氏討伐に従軍し、天正6年(1578)6月に三木氏支城の播磨国神吉城攻めの検使を務め、同年12月には堀秀政・万見重元らとともに鉄砲衆を率い、信長に叛いた荒木村重居城の摂津国有岡城(伊丹城)への総攻撃を行ったが、陥落させることはできなかった。
天正9年(1581)3月には能登国七尾城代に任じられ、6月末には信長の意向を受けて城内の反織田派武将であった遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らを粛清した。また同年、越中国願海寺城主の寺崎盛永をも七尾城に誘殺している。
天正10年5月、信長が上洛するに先立って京都に入ったが、6月2日未明に本能寺の変が勃発し、子の角蔵が信長に殉じている。その後、長頼は信長の子・織田信忠の勢に合流して二条御所で明智光秀勢と戦ったが、敗れて討死した(二条御所の戦い)。