立原久綱(たちはら・ひさつな) 1531〜1613

尼子家臣。立原幸綱の二男。兄は立原幸隆。通称は源太兵衛。出雲国大原郡加茂立原城主。
尼子義久に仕え、尼子家中では中老衆として美作国のうちで2万3千石を領したという。
永禄6年(1563)1月の三刀屋城攻めにおいて、尼子義久の近習頭として先発隊を率いて出陣。同年秋の白鹿城の戦いでは甥にあたる山中幸盛らとともに救援に赴き、尼子勢の殿軍を務めた。
月山富田城の戦い:その2において、劣勢に将兵が次々と離脱していく中にあっても最後まで籠城を続けて義久を支え、永禄9年(1566)11月末に義久が月山富田城を開城して毛利氏に降るにあたっては折衝役を務め、戦国大名としての尼子氏が滅亡したのちは京都に潜伏して尼子氏再興の機を窺った。
永禄11年(1568)、尼子誠久の遺児で東福寺の僧となっていた尼子勝久を山中幸盛らと共に擁立し、翌12年(1569)6月には毛利氏が北九州戦線で大友氏と対峙している間隙を衝いて勝久らと共に尼子氏の故地・出雲国に侵入、尼子旧臣を糾合して一大勢力を築いた。
次いで出雲国新山(真山)城を降して本拠とし、かつて尼子氏本城であった月山富田城の奪回を図るも城将・天野隆重に阻まれて成らず(月山富田城の戦い:その3)、翌元亀元年(1570)2月には北九州の戦線から撤退してきた毛利輝元を総大将とする軍勢と布部山に戦うが破れ(布部山の合戦)、その後も新山・高瀬・十倉などの城に拠って抗戦を続けたが、毛利勢の圧迫に退勢を強いられ、元亀2年(1571)8月には出雲国を逐われた。
元亀3年(1572)以降は再興尼子氏の地歩を固めるために山名豊国と結んで因幡国を転戦、私都城や若桜鬼ヶ城を拠点として活動したが、吉川元春の指揮する軍勢に撃退されて天正3年(1575)5月には但馬国へと逃走した。
その後、織田信長配下の羽柴秀吉に属し、天正5年(1577)12月より勝久が播磨国上月城を任されることになった際には強く反対したというが、勝久に従って入城した。しかし毛利軍の厳しい攻囲に救援も断たれ、天正6年(1578)7月に上月城は落城(上月城の戦い)。このとき勝久は自刃し、久綱は城を下って吉川元春に捕えられたが、脱出して信長を頼った。
のち、蜂須賀家政に仕えていた女婿・福屋隆兼を頼って阿波国へ行き、同地で慶長18年(1613)4月26日に没した。享年83。法名は節山院珠栄全忠居士。