山中幸盛(やまなか・ゆきもり) 1545?〜1578

尼子家臣。通称は甚次郎、のち鹿介と改める。一般には本名の幸盛よりも鹿介の名の方が有名。父は山中満幸、母は立原綱重の娘・なみ。
天文14年(1545)8月、出雲国新宮谷で生れたという。はじめ亀井氏の養子となっていたが、兄・甚太郎に代わって山中氏を継ぐ。
永禄5年(1562)以降、毛利氏の出雲国侵攻に対して尼子氏武将として活躍した。
永禄9年(1566)に主家の尼子氏が毛利元就に滅ぼされて(月山富田城の戦い:その2)のちは京都に潜伏していたが、永禄11年(1568)に毛利氏が筑前国で大友氏と対峙(立花城の戦い)している隙を衝いて尼子旧臣の立原久綱と共に主家の一族・尼子勝久を奉じ、永禄12年(1569)6月には出雲国に侵入した。
出雲入国後は尼子氏再興の檄を飛ばして尼子旧臣や浪人を糾合、たちまちのうちに6千もの軍勢を集め、その勢いをもって尼子氏のかつての本城であった月山富田城の奪取を企てて攻撃に及んだが(月山富田城の戦い:その3)、富田城将・天野隆重の堅い守りに阻まれて攻めあぐね、永禄13年(=元亀元年:1570)2月の布部山の合戦で毛利勢に撃退された。
この敗戦や毛利氏による調略などのために尼子氏の威勢は減衰、勝久に応じた諸城も毛利勢に帰するところとなった。幸盛はなおも伯耆国末石城に拠って防戦したが、元亀2年(1571)夏に敗れて捕えられ、斬罪に処せられるところを「毛利家のために働く」と称して命を助けられたが、のちに厠より逃走、京に奔って織田信長に支援を求めた。
天正2年(1574)には山名豊国に与して因幡国鳥取城に入城し、勝久と合流して八頭郡周辺で毛利勢との攻防を繰り返すが戦況は芳しくなく、天正4年(1576)5月には拠点としていた鬼城を落とされて京都に逃れた。
天正5年(1577)より織田家臣・羽柴秀吉の麾下に属し、陥落させた播磨国上月城の守将となる。しかし天正6年(1578)に毛利家武将・吉川元春らの大軍に包囲され、羽柴方にも見捨てられ、糧食も尽きて7月3日に開城、勝久は自刃した(上月城の戦い)。
上月落城後は毛利氏に降り、元春・小早川隆景の両将は幸盛を家臣にしようとしたが、毛利氏当主・毛利輝元の命によって備中国の阿井(合)の渡しで討たれた。7月17日、34歳(39歳とする説もある)。一説には元春の命を狙おうとして降伏したが、見破られて殺されたともいう。
主家再興のために奔走している時期に、三日月を仰いで「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという伝承はあまりにも有名である。
墓は岡山県高梁市落合に、首塚といわれるものが広島県福山市鞆町にある。