富樫満成(とがし・みつなり) ?〜1419

富樫氏庶流・富樫家永の子。一説には富樫満春の弟。兵部大輔。
富樫氏は嫡流の富樫高家が建武3年(1336)以前に加賀守護に補任されて以来、加賀守護職を継承してきたが、至徳4年(=嘉慶元年:1387)に富樫昌家が死没したのちの加賀守護職は斯波氏に移行した。しかし斯波満種が将軍・足利義持の怒りに触れて失脚すると、応永21年(1414)6月9日、富樫氏が加賀守護の地位に返り咲くこととなった。このとき、加賀の北半国守護に満成、南半国守護に富樫氏嫡流の満春が補任されている。
満成は義持の近習として仕え、その権威は傍若無人と評されるほどであったが、応永25年(1418)11月、将軍・足利義持に勘当されて所領も没収された。この理由は、謀叛を起こして殺害された足利義嗣に関わったためとも、義嗣の愛妾との密通が露見したためとも言われる。
なお、この満成から没収された半国守護職は満春に与えられ、満春が加賀一国の守護となっている。
満成は出家して高野山に向かったが、義持の許しを得られず、大和国吉野の天川に隠居した。しかし翌応永26年(1419)の初め、義持の命を受けた畠山満家に河内国で殺害された。
没日は一説には2月30日とされるが、『看聞日記』では応永26年2月4日条に記されており、不詳である。