柳生宗厳(やぎゅう・むねよし) 1527〜1606

兵法家。大和国添上郡柳生郷の豪族・柳生家厳の嫡男。幼名は新介。通称は新左衛門。但馬守。石舟斎と号した。
香取新十郎に新当流の剣術を、(宝蔵院)胤栄に宝蔵院流の槍術を学ぶ。
永禄6年(1563)、多武峰の衆徒との合戦に父・家厳と共に松永久秀方に加わり、武名を知らしめた。同じ年に来訪した兵法家・上泉信綱に入門し、永禄8年(1565)4月に新陰流の皆伝を受け、翌年5月にはさらに奥義の伝書をも受けた。のちに無刀取りの秘術を創案、多くの大名が門弟になった。
はじめ三好長慶の家臣だったが、のちに織田信長に仕えた。
天正元年(1573)以降、病のためと称して致仕して柳生村に閑居した。
文禄2年(1593)、入道して石舟斎と号す。
文禄3年(1594)5月、徳川家康から京都へ招かれ五男の宗矩と無刀取りを披露、宗矩は5百石で召抱えられた。
家康に新陰流を伝授し、以来、柳生家は代々、徳川将軍家の兵法師範役の地位を占め、刀術の主流門閥となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役において宗厳は、家康の命令で畿内の情報を偵察して報告。
慶長11年(1606)4月19日、柳生にて没した。80歳。法名は芳徳院荘雲宗厳居士。
宗矩は次第に栄進し、1万2千5百石の将軍師範役兼大目付となった。