姓の読みを「よこじ」とも。尼子家臣で、尼子晴久・義久・勝久の3代に仕えた。通称は四郎。実名は秀綱・正光か。尼子十勇士のひとり。
横道氏は石見国邇摩郡横道の出身で、益田氏の庶流。父は横道清高。弟に高光(源介)・高宗(権之允)がいる。
永禄9年(1566)11月に出雲国月山富田城が開城(月山富田城の戦い:その2)するまで尼子義久に従って籠城を続け、尼子氏の滅亡後は出雲国から退去して弟の高宗と共に松永久秀のもとに身を寄せていたが、永禄12年(1569)に主家の再興を図る尼子旧臣の山中幸盛・立原久綱らが尼子勝久を擁立して出雲国に侵入すると、久秀からの再三の慰留を振り切って再興尼子氏への合流を果たした。
再興尼子氏の家中では山中・立原に次ぐ格であったと目され、領国統治に係る奉行職なども担っている。
その後は勝久に従って月山富田城の奪還を目指したが、永禄13年(=元亀元年:1570)2月に毛利勢と出雲国布部山で戦った際に負傷し、姪婿で毛利方になっていた中井善左衛門に討たれた(布部山の合戦)。この中井は10日ほど以前に毛利氏に降参したばかりであり、手負いの縁者を討った行為が『陰徳記』『雲陽軍実記』などで厳しく指弾されている。