赤穴(あかな)城の戦い

尼子晴久は天文9年(1540)8月、毛利元就の拠る安芸国郡山城の攻略を企図して出征したが、大内義隆から派遣された陶晴賢の率いる援軍を得た毛利勢に敗北した(郡山城の戦い)。この敗戦は多数の将兵を損じたに留まらず、それまで尼子氏に従っていた安芸・出雲・石見国の国人領主らの離反を招くこととなり、尼子氏の先行きに暗い影を落とすこととなったのである。
その一方で大内義隆は、尼子氏より新たに帰属した領主らの強い要請を容れ、この機を逃さずに尼子氏を討つことを計画したのであった。

天文11年(1542)1月13日、義隆は嫡子・晴持や陶晴賢・杉重矩内藤興盛ら大内氏直属の軍勢1万5千を率いて周防国山口を発向。この軍勢は安芸国を経由して安芸国の毛利元就・宍戸隆家・平賀隆宗・吉川興経・小早川正平・天野興定・熊谷信直、備後国の三吉広隆・山名(杉原)理興・多賀山通続・山内隆通らの将兵と合流、3月には石見国でも本城常光・益田藤兼らの軍勢をも加えて出雲国への侵攻を開始したが、その進軍を阻んだのが赤穴城であった。
出雲・石見の国境を扼す出雲国飯石郡赤穴城(別称を瀬戸山城・衣掛山城)は尼子十旗のひとつで、月山富田城の南の防壁として赤穴光清が守っていたが、堅固な要害を備えていたことに加えて月山富田城からの援兵を得て兵力も増強させており、6月より始まった総勢4万ともいわれる大内勢の攻撃にも陥落する気配がなかった。
業を煮やした大内勢は7月27日未明に諸所の攻口より総攻撃を決行。が、それでも城兵の頑強な守りを崩せず、未の刻(午後2時頃)に兵を退かせることになった。しかし陶晴賢・吉川興経らは頑として退却を受け入れず、さらに激しい攻防を続けたが夕方になったため、仕方なく撤兵した。この日の戦闘で大内勢は数百人の戦死者を出したという。
戦況は赤穴城方が優勢のまま推移していたが、予期せぬ出来事が起こる。不運にも城主の光清が流れ矢に当たって戦死してしまったのである。
この事態を受けて城方は、光清の妻子の助命を条件として開城することとなった。