永正7年(1510)6月の長森原の合戦で関東管領の上杉顕定が敗死したとの報を得た北条早雲は、念願の関東進出を果たすべく侵攻を開始する。まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国権現山城に据えた。権現山城は江戸と鎌倉を扼する重要な地である。
しかし、この早雲の動きに危機を感じた朝良が7月11日より権現山城を攻撃。この地は扇谷上杉氏にとっても相模国東部の要衝のひとつであり、ここに穴をあけられるということは勢力圏が分断され、早雲の相模国制圧を容易にさせることになるのである。
この朝良の出兵に、山内上杉憲房が応じた。それまで扇谷上杉氏と山内上杉氏は反目しあっていたが、共通の敵である早雲と戦うために結託し、憲房は朝良を支援するため成田親泰・藤田虎寿丸・大石顕重・長尾景長らの軍勢を権現山城攻めに派遣したのである。
対する早雲は権現山城に今川氏親・長尾景春らからの援兵を籠め、自らは住吉の要害を拠点として後詰に出陣した。しかし数に勝っていた上杉連合軍は北条・上田勢を破り、7月19日、権現山城は9日間の激戦の末に落城した。