徳川家康は、豊臣秀頼の拠る大坂城を攻めるにあたって完全な包囲網の構築を企図した。
すなわち、全国の諸大名を参陣させることで外部からの支援を断ち、圧倒的な兵力で豊臣陣営を大坂城に押し込めたうえで包囲持久戦に備えたのである。家康はその包囲網を完成させるために、幾つかの付城の構築を考えていた。そのひとつが、今福の地であった。
今福は大和川の北岸、大坂城からは北東2キロほどのところで、大坂方はこの今福とその対岸の鴫野に砦を構えており、今福砦は矢野正倫・飯田家貞ら5百の兵が籠められ、鴫野砦は井上五郎右衛門・小早川左兵衛・竹田兵庫ら2千の兵が守りを固めていた。
それに対する寄せ手の徳川勢は今福に佐竹義宣が、鴫野には上杉景勝・堀尾忠晴・丹羽長重が布陣しており、家康は11月25日の夜に使者を通じて佐竹義宣と上杉景勝に、明日を期して今福・鴫野の両砦の攻略を命じたのである。
翌26日の夜明けとともに佐竹義宣・上杉景勝らはそれぞれ今福・鴫野へと向けて進撃を開始し、戦いは佐竹隊による今福砦への急襲から始まった。
兵力1千5百ほどの佐竹隊は果敢に今福砦に突入し、守将の矢野・飯田以下多数の守備兵を討ち取って砦を占拠した。しかし午後2時頃になると、大坂城から押し出してきた木村重成・後藤基次ら率いる3千の兵の反撃を受け、佐竹隊は大将の義宣自ら太刀を振るって防戦しなければならないほどの劣勢に陥って多くの死傷者を出すに至った。
一方の鴫野でもほぼ同時刻に寄せ手と守備兵との間で銃撃戦が始まったが、5千の兵を擁して優位に立った上杉隊は砦に攻め入り、壮絶な白兵戦が展開された。砦の守備兵もよく守り、とくに秀頼の武術師範をも務めたともいう穴沢盛秀は大長刀を水車のように振り回して多くの敵をなぎ倒した。そこへ城中から繰り出した青木一重や渡辺内蔵助らの率いる新手の兵が駆けつけてきたため、上杉隊も苦戦を強いられることとなった。
しかし間もなく堀尾忠晴・丹羽長重らの兵が応援に加わると、上杉隊は勢いを取り戻して敵兵を退け、さらには苦戦に陥っていた今福砦の佐竹隊の救援をも果たし、大坂方を圧倒したのである。
この戦いは大坂冬の陣最大の激戦とも言われ、双方ともに多数の死傷者を出した。大坂方の後藤基次は退却の際に被弾して血まみれの姿になって帰城したといい、徳川勢ではとくに佐竹隊の損耗が激しく、翌日には佐竹隊に代えて本多忠朝以下、浅野長重や真田信吉・信政兄弟、仙石忠政・秋田実季らに今福砦の守備が命じられたという。