後藤基次(ごとう・もとつぐ) 1560〜1615

黒田家臣。通称は又兵衛。隠岐守。
はじめ播磨国三木城主の別所氏に仕えたが、やがて黒田孝高に属した。叔父・藤岡九兵衛の反逆事件に連座して追放されたが、長政の代に再び黒田家に仕えた。
天正15年(1587)の九州征伐に従軍。天正17年(1589)には豊前国城井谷の宇都宮鎮房を討つという大功を挙げており、文禄の役でも長政をよく補佐した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、石田三成隊を破る殊勲を挙げた。役後、長政が筑前一円を領すると采地1万6千石を与えられ、嘉麻郡小隈城主となる。
性豪放、無類の武辺者で、全身に刀槍や矢弾の傷痕が53もあったという。
母里友信・黒田三左衛門と共に、黒田家の代表的な武功の臣であった。だが長政とは折り合いが悪く、ことごとく対立し(謀叛の疑いをかけられたとも)、慶長11年(1606)に主家を離れて流浪の身となった。
勇名を広く知られていたので仕官口は引く手あまたであったが、基次を快く思わない長政によって再仕官をことごとく邪魔されたという。のちに池田輝政に仕えたが、輝政没後の慶長18年(1613)に長政の強い要求で池田家を離れることとなった(池田家との離別を慶長16年(1611)とする説もある)。
そののちは浪人となり、大坂に出て隠棲した。乞食に身を落として生きながらえたという。
慶長19年(1614)、徳川氏と豊臣氏の手切れが確定的なものとなると、豊臣秀頼に招かれ大坂城へ入城。戦歴豊富な勇将として軍議にも参与した。大坂冬の陣においては11月の今福・鴫野の戦いなどで奮戦している。
この冬の陣において徳川氏と豊臣氏は12月に講和するに至るが、こののちに徳川方から播磨一国50万石という好条件で寝返りの誘いを受けた。これに対して基次は、自分の力量を大いに認めてくれたことを謝しながらも「寝返りは英雄の恥である」と断り、「一代の英傑である太閤(秀吉)の嫡子・秀頼公に見込まれ、天下の将軍である徳川家康公にも見込まれた自分は果報者である。この両公の厚情に対し、秀頼公のためには奮戦して討死を遂げることで応え、家康公のためには戦いの初日に討死することで御恩に報いる所存である」と告げた。その理由として「自分が生きていれば、1日で落城するはずの大坂城も10日間は持ちこたえてしまい、家康公は城攻めに手間取ってしまうことになる」からだという。
この発言の真偽のほどは定かではないが、翌慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣に大和方面へ進軍した際、5月6日の河内国の道明寺の合戦伊達政宗隊と戦い、銃弾を受けて戦死した。56歳。
基次の見立てたとおり、その他の豊臣方将士は翌7日にほぼ壊滅し、大坂城は5月8日に落城している。