中尾(なかお)城の戦い

管領・細川晴元は将軍家の足利義晴義輝父子を推戴して幕政を実質的に掌握したが、天文18年(1549)6月に腹心の三好政長が晴元の政敵である細川氏綱を擁する三好長慶に攻められて敗死すると、足利父子を奉じて近江国へと逃れ、六角定頼を頼った(江口の合戦)。
これによって細川晴元政権は崩壊し、替わって入京した長慶が本拠を摂津国越水城に置きつつも京都を勢力圏に収めることになったが、その威令が浸透したのは洛中辺りまでで、東山の峰一帯には未だ勢力が及ばなかったことから、京都への復帰を狙う足利義晴は天文19年(1550)2月、その足掛かりとして慈照寺(銀閣寺)の裏山で、中尾の峰と通称された地に築城を開始した。
義晴は同年5月に病死したが、子の義輝がその遺志を継いで中尾城の築城を続けた。この城は間もなく完成したとみられ、規模の小さな城郭であったが、二重構造の壁の中に石を詰めていることが知られ、これは鉄砲による攻撃に備えたものであったとされる。

義輝は同年7月に軍勢を近江国坂本から築造成った中尾城へと動かして京都を窺ったが、これを察知した三好方も1万8千の兵で出陣し、長慶は大山崎に本陣を構えた。
義輝を支援して出陣した細川晴元は吉田山、六角義賢は北白川の瓜生山山上に布陣したが、7月14日の三好長逸十河一存の指揮する三好勢と細川晴元の軍勢によって行われた市街戦には、三好方の大兵を警戒して主力を動かさず、足軽同士の小競り合いに止まったようである。
このとき三好勢の兵が晴元勢の鉄砲に撃たれて死んだことが『言継卿記』(公卿・山科言継の日記)に記されており、これが実戦で鉄砲が使用された記録の初見である。先述の中尾城の石詰めの壁のことと併せると、この頃の畿内ではすでに武装として鉄砲が標準化しつつあり、中尾城は鉄砲による攻撃にも耐えられることを前提として築かれた最新鋭の城であったと考えられる。
この後の3ヶ月ほどは記録がないことから特筆すべき交戦もなかったと見られ、10月20日には長慶麾下の摂津国衆が京都に進み、吉田・北白川近辺の細川・六角勢と戦っている。
その1ヶ月後の11月19日、長慶は摂津・丹波・河内国から動員した4万ともいわれる大軍を動かして聖護院・吉田・北白川・浄土寺・鹿ヶ谷などの地域を放火するとともに、別働隊として松永長頼らを山科方面から近江国へと進撃させて大津周辺を放火し、中尾城の背後を脅かした。この前後からの圧迫を受けた義輝らは退路を断たれることを危惧し、21日に中尾城と瓜生山に火をかけて近江国の坂本、ついで堅田へと撤退したのである。
23日には三好方が中尾城の焼け残り跡をさらに放火し、石垣などを破却した。